不思議な話 その41 南方熊楠の超能力(2)

 南方熊楠さんの話の後半です。1900年10月に夏目漱石氏がロンドンへ行ったのと入れ替わるように、彼は海外に出て、14年目で日本に帰国しました。

 彼のロンドン生活を振り返ると、貧しく、馬小屋のような宿に住み、3度の食事も十分に食べられないで、お金が入ったら、本を買ってしまったといいます。酒豪で酒を買う金が出来ると、ビールを18本も飲んだりしたそうです。友達が酔い潰れても、彼は一晩でラテン語(英語圏の人にも難しい英語の語源になった古代の言葉)を60ページも翻訳していたそうです。熊楠は夏目漱石のように西欧人へのコンプレックスはなかったようで、十数カ国語の語学に堪能で、東洋人で西洋人以上に世界を知っていたので、逆に優越感を持っていたといいます。夏目漱石はうつというか当時の言葉でノイローゼのようになり、部屋に引き込もっていることが多かったようです。

 熊楠は引きこもるどころか、「東洋人だ」とロンドンの人に馬鹿にされると、その人に殴りかかって抗議したことが、2回もあったといいます。友人になった中国の孫文に、中国が西洋の列強の国々に占領されていたので、「東洋人は一度西洋人をことごとく国境の外に追い出すべきだ」と意見したそうです。

 当時のロンドン大学総長ジギンズという人の考えで、ケンブリッジ大学に日本学講座を開設して、熊楠を助教授で採用してイギリスにとどまってもらおうとしたのですが、ヨーロッパの戦争などの影響でながれてしまったようです。風変わりな彼の個性と彼の才能を愛する人も少なからずいたのですね。

 熊楠が帰国したのは33の時で、一文もなく、みすぼらしい身なりで帰国しました。英国からは53冊ものノートや研究資料を持って、帰りました。彼の弟は造り酒屋をついで、傾きかけた家を再興していましたが、真面目な弟夫婦に対して、変人の熊楠は理解してもらえず、口論のようになり、紀伊勝浦の南方酒造の店に1人で住んで、研究を続けました。

 その後、田辺に引っ越して、39歳で神社の宮司の娘さんと結婚しました。熊楠は田辺は物価が安く町は静かで風光明媚で気に入っていたいたようです。もちろん彼の研究する自然の標本もたくさんあったと思います。再び奇声を上げながら植物採集している姿を見て周りの人々は驚きました。長男と何年後かに長女が生まれました。

 42歳のとき、植物や自然を愛する熊楠は神社の宮司さんの婿だったこともあり、『神社合祀反対運動』を起こしました。当時の明治政府は、国家神道の権威を高めるために、江戸時代から、数多くあった神社を統率しやすいように、各村で一つに減らそうとしました。とても役人的なまとめ方ですね。『日本書紀』や『古事記』などの古文書にある神だけを残そうとする「神社合祀令」を出しました。和歌山では3700あった神社が強制的に600に、つまり6分の1に減らされたわけですね。三重県では5547が942まで減らされました。これは、神社に携わる人々には死活問題であるでしょうし、江戸時代から人々に愛された地元の氏神様が消されていくわけです。

 神社には豊かな自然の植生と樹齢何百年や千年という神木がありました。これを切って儲けようとする開発業者も多くいたわけです。この自然への苛酷なしうちに熊楠は激怒しました。樹齢を重ねた古木の森にはまだ発見されていないコケや菌類がいるかもしれず、伐採されると菌ごと森が絶滅してしまうのです。「植物の全滅というのは、ちょっとした範囲の変更から、たちまちいっせいに起こり、そのとき以下に慌てるも、容易に回復しえぬを小生は目のあたりに見て、証拠に申すなり」と言って反対しました。この言葉は日本の未来いや、世界の未来への警告のようでもあります。(古代ローマも確か森の木を資源として切りすぎたのが原因で、文明が滅んだのではないか思いますが・・・)

 彼は英語の「エコロジー」という言葉を日本で初めて使いました。彼は生き物は目に見えない力で全生物が繋がっていると訴え、生体系を守る運動をしました。

 彼は民俗学、宗教学の立場からも、人と自然のかかわりを力説し、神社の森は人々の生活に密着していて、神社の木はただの木ではなく、鎮守の森の破壊は、人の心の破壊だと主張しました。彼は新聞各紙に、「神社合祀」の反対の論文を書き、環境保護活動を日本でやった最初の人になりました。

 1910年、43歳で合祀派の県役人が田辺に来た時に植物標本の泥の入った布袋を投げ、家宅侵入罪で18日間拘置所に入れられましたが、そこに珍しい粘菌があったので、釈放されても、もう少し拘置所に置いてくれと頼んだといいます。

 45歳でアメリカの農務省から、省内に入って研究してほしいと頼まれましたが、自然保護の運動の途中だったので、無視していると、アメリカから農務省の役人がはるばる、日本に来て彼を説得しようとしました。熊楠は運動が決着していないのと、家族のことを考え断ったそうです。
 
 1917年、50歳で新種の粘菌を発見し、「ミナカテラ・ロンギフェラ」と名づけられました。

 1929年に天皇が和歌山の神島に行幸したときに粘菌標本を献上して、天皇はその後、彼に関する歌を詠まれたそうです。彼は神島の自然を保護する活動もしました。

 1937年70歳日中戦争が起こり、世間がざわついている中、集大成として、これまでの標本と菌類を整理し、4500種1万5千枚のカラー図鑑を作りました。

 1941年高齢で体調を崩し、病状から自分の死期を悟り、家族への形見を残します。1941年に、当時としては未来の大量破壊となる太平洋戦争が起こった、真珠湾攻撃にショックを受け12月18日になくなります。アメリカ、イギリスは彼の第2、第3の故郷だったのでしょう。

 彼の残した素晴らしい言葉に「世界に不要なものなし」というのがありますが、まさにその通りだと思います。もちろん人にも不要な人は、この世にいないですし、人生のイベントにも、実は無駄なことはないのです。
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不思議な話 その40 学者、南方熊楠の超能力

 秋が深まって松茸を初めキノコ類の美味しい季節となりました。今年はキノコの当たり年だそうで、国産松茸も豊作だそうです。夏が暑く秋が雨が多かったからでしょうか?キノコ狩りのかたは、毒キノコにご注意ください。松茸が赤松の特定の場所にしか生えないのも不思議なことですね。赤松のマネをしているのでしょうか。あの独特の香りは松の香りも影響しているのでしょうか?

 その他のきのこの生態にも不思議なことが多いと思います。きのこといえば、過去から現在までの日本で最もその生態に詳しくもっとも菌類を愛した学者、南方熊楠(ミナカタクマグス)について、再び書きましょう。彼は現代の学者では、まねの出来ない博物学者で、その専門は広く、第一が細菌学、粘菌学者です。民俗学者でもあり、同分野の第一人者柳田国男と交流がありました。植物学者、天文学(彼はインドの天文学についての論文をたしか『ネイチャー』という学会誌に載せました。)者、人類学者、考古学者、生物学者、その他の知識も豊富です。「歩く百科事典」と呼ばれました。

 彼は、江戸期の最後、明治元年の前年の1867年に和歌山市の金物商の家に6人兄弟の次男として生れました。アメリカとイギリスに留学して、外国語が10種類以上(英・仏・独・伊・露・ラテン・スペイン・ギリシャ・サンスクリット・中国)語に堪能だったようです。まさに語学でも天才ですね。賢い熊楠がたくさんの語学に触れられたのは、1886年19歳の時に2年前から入学していた大学予備門(現在の東大)を授業がつまらないからと、動物園、博物館、植物園通いで落第し、自分から退学して、「学問はアメリカの方が先をいっていると」反対する親を説き伏せ、留学します。

 熊楠はミシガン州の州立農学校に合格しますが、彼は大酒飲みで、ウィスキーを飲み過ぎて、寮の廊下で寝ていたところを、校長に見つかって、退学させられます。彼はひるむことなく、アメリカの山野に出かけ、植物採集をします。彼はここで、菌類、粘菌の魅力にとりつかれます。1891年24歳の時に、彼は温かいフロリダは新種の植物の宝庫だと聞かされ、顕微鏡などと護身用のピストルをもってフロリダに向かいました。彼はそのあと、なんとキーウェストからキューバに行きました。キューバの首都ハバナで公演中のサーカス団に加わり、ハイチ、ベネズエラ、ジャマイカ、と中米と南米の北を3カ月でめぐります。もちろん植物採集の為に・・・サーカス団で文盲の(字が書けないとか読めない団員の)為に手紙や団員のファンの返事のようなものを代筆する仕事によって、十数カ国語に堪能になったようです。彼に言葉を教えた人もきっといたのでしょう。ここまででもまるで映画の主人公のようですね。

 熊楠は1892年25歳の時、19歳から25歳までの6年間のアメリカ生活で、標本を充分集めたので、さらに研究をしようと英国のロンドンへ行きます。その年、彼の父親は病気で亡くなりました。

 1893年に26歳で、天文学会の懸賞論文に出した論文「極東の星座」がイギリスの科学雑誌『ネイチャー』に掲載され、彼は有名になります。その後も「ミツバチとジガバチ」の論文を発表し、生涯で51回も論文が載ります。

 大英博物館の図書部長は、彼の優秀さを知り、博物館の東洋調査部員になり、東洋関係の展示品の整理と目録の作成をします。彼は同時期にイギリスに亡命中の孫文と友人になります。彼は大英図書館で猛勉強をしました。十数カ国語を駆使して、世界中の図書、貴重な本、古書を手で書いて写して覚えたりもしました。

 熊楠は自らの超能力に関して、友人宮武省三と言う人に送った手紙でこう述べています。「小生は牛と同じ反芻胃で、物を食べれば、何度でも口に出すことが出来、これが大変うまい。(私の意見としてはこれは、少し気持ち悪い能力ですが)脳が異常に発達し、1人でありながら、2人、3人の働きを出来る超能力がある。このため、小生にうらまれて、死亡したり全滅したものもある。また、人の思うことがわかるなど、とにかく自分の脳はよほど変わっているので小生の死後は大学に売るか、寄贈して解剖し、学問上役立ててほしい」と彼は57歳の大正13年(1924年)3月29日に手紙を送っています。実際彼が1941年74歳で亡くなってから、脳は遺言通り解剖されて一部は保管されているそうです。彼は幽体離脱や幻覚もみていて、死後に脳を調べてもらったら、海馬が委縮していたということですが、直接幻覚の原因とは言えないと思います。むしろ、使い過ぎで年をとってから委縮が早かったのかもしれません。

 彼は超人的な暗記力の持ち主で、小学校入学時7歳の時に漢籍を読み、10歳で、日本の昔の百科事典といわれている『和漢三才図会』という持ち出しの禁止されている本を、写し取り5年で105巻81冊を本文から挿絵まで写し取ったといいます。すごい超能力と努力ですね。どんな人もマネできないと思います。

 彼は子供のころから勉強が好きでしたが、学校が嫌いでした。知能指数が高すぎて、学校の授業がさぞ退屈だったと思います。学校をさぼって植物を観察しに山へ入って2~3日出てこなかったので、友達が彼を「てんぎゃん」(天狗やん)と呼びました。12歳のとき『太平記』を古本屋で立ち読みし高かったので、子供には買えませんでした。そこで彼は3~5ページ立ち読みし、家に帰って暗記したものをノートに写し取り、半年で54巻すべてを写し取りました。ただの暗記力ではありませんね。常人の暗記力を超えた超能力です。

 この能力は日本語だけでなく、各国語でもそうだったのです。一度見たら文も絵も図形も脳に写真のように焼き付いて、いつでも記憶の引き出しからだしてこられるのでしょう。こんな能力は知恵遅れのサヴァン症候群に見られますが、彼は知恵遅れではなく、知能指数が高くてその能力があったのでしょう。彼は菌類や植物やキノコの発見でも、「新しい植物やキノコを発見するのは大変でしょう?」と誰かが彼に質問したら、キノコたちが自ら私に語りかけてくるので、何も大変なことはないよと答えたといいます。俗っぽい考えですが、熊楠に松茸を探してもらったら、莫大な数がとれたことでしょう。

 彼はもう二度と、日本では出てこない稀有な天才ではないでしょうか?

 長くなったので後半は次回に、また新しい不思議な話も見つけましょう。

不思議な話 その39 テンプル騎士団の財宝

 前回の続きで、テンプル騎士団についての不思議な話です。
 
 コロンブスが新大陸を見つける1492年より前に、大西洋をはさんで、テンプル騎士団と古代スカンジナビア人はグリーンランドで、交易を初めいろいろな交流があったようです。1824年にグリーンランドのラペルナビクという所から、もう一つの石碑が発見されました。それには、1314年に古代スカンジナビア人がグリーンランドに船で渡ったようすが、彫られていました。(ここにも暗号のようなシトー修道会の日付と実際の日付の二重日付が使われていました。どうも、この二重日付が、シトー修道会とテンプル騎士団がからんでいる証拠になるようです。テンプル騎士団はグリーンランドからさらに西に向かいました。その目的は、羊の牧草地を探すことと、国を追われて金銭や食料を得るために、羊を飼ってグリーンランドで交易をしたようです。彼らはグリーンランドで羊の毛を売ったり、肉を売ったりしていました。そこから、さらに西に行ってアメリカ大陸に上陸するのは、自然な流れのようにも思えます。

 テンプル騎士団の旗は、白と黒半々の背景に赤い十字が浮かび上がっているデザインです。1982年にアメリカイリノイ州の洞窟で発見された石には、丸に十字のマークがついていました。そこはリトルモバッシュ川の上流で、不思議な古代エジプトのような絵が彫られた石が見つかったことから、地名はリトルエジプトと言われています。テンプル騎士団の財宝は、具体的な金や銀貨幣などの貴金属なのか、あるいは、モーゼがエジプトから出る時に持って来たような古い記録なのか、あるいは、アメリカ大陸にもたらされたヨーロッパの学問なのか、創造の域を出ませんが、意見の分かれるところです。テンプル騎士団によって、十字軍の遠征の影響で、イスラム教の建築技術(モスクのドームのような形、アーチ様式)イスラム教の数学、幾何学、がヨーロッパに持ち込まれたのと同じように、実はテンプル騎士団はアメリカにもその技術を持ち込んだのではと考える人がいます。

 14世紀1300年代に、前回書いたケンジントンルーンストーンが実在したとすると、それはテンプル騎士団の、新天地アメリカにおける土地所有権を表わしたものではないかという説があります。

 1398年ごろ、アメリカのインディアンミクマク族の伝説では、「男が東の方向からクジラ(インディアンからすると、船をみたことがないので、クジラと表現したのかもしれません。)に乗ってやってきた。」とあります。この男というのは、スコットランドの貴族の王子、ヘンリー・シンクレアではないかと言われています。

 シンクレア家はスコットランドで古くからある由緒正しい一族です。前回の石碑にあった「かぎつきのX」はシンクレア家の記念碑や書物に極めてたくさん出てきます。シンクレア家はテンプル騎士団の一員だったのです。スコットランドのロバート1世はローマ法王と考え方が合わず、破門されました。ロバート1世はテンプル騎士団と関係が深く、フランス王に利用され追い出された十字軍のテンプル騎士団もローマ法王から破門されました。その後、ロバート1世が亡くなり、王は自分の遺体をキリスト教の聖地でもあるエルサレムに葬ってほしいと、テンプル騎士団に頼みます。テンプル騎士団は王の望み通りに遺体を東へ運びますが、十字軍の遠征の撤退以後、力をつけてきた、イスラム教徒の軍の攻撃に逢い、イスラム教徒は王の遺体を奪い、心臓だけ返し、王の心臓はスコットランドの教会に葬られました。1345年にヘンリー・シンクレアは生れました。

 1398年当時、シンクレア家はヨーロッパに何かを隠し持っていたと言われました。十字軍のテンプル騎士団の生き残りが持っていた財宝かもしれません。

 ヘンリー・シンクレアはアメリカに船で渡り、先住民であるインディアンと親密な関係になったという伝説があります。ミクマク族と友好関係を結んだのです。

 アメリカインディアンのミクマク族の側にも同じような伝説があり、グルースカップの伝説がそれにあたります。ヘンリー・シンクレア思われる人物が、ミクマク族と親しくなり、彼の仲間が山の方に住んで、山頂で裁判をしたというのです。ミクマク族には当時裁判という考え方はありませんでした。ヘンリー・シンクレアの関係者の記録とグルースカップの伝説は、17件もの共通点があります。さらに不思議なことに、ミクマク族には旗があり、それには大きな十字の形が描かれていました。そうぞうですが、シンクレアの一向とミクマク族との間には、結婚等による血縁関係も生じたかもしれません。そうだとすると、旗の形が一緒なのも頷けます。

 かつてミクマク族の土地であったオークアイランドという島に、シンクレアがヨーロッパから財宝を持ってきて隠したという伝説があります。ヘンリー・シンクレアが当時北米になかった樫の木を植えたのではないかと考えられています。

 20世紀になって、その地域に住む少年2人がオークアイランドで石碑を見つけました。その石碑には財宝はこの先に眠るとかかれていたそうです。その後、大統領経験者のフランクリン・ルーズベルトが引退後に資材を投じてここで宝探しをしました。俳優のエロール・フリンやジョン・ウェインが宝探しをしましたが、財宝は出てきませんでした。

 アメリカ大陸発見の功績はコロンブスではなく、実はテンプル騎士団にあったのかもしれません。しかし、コロンブス自身も実はシンクレア家と婚姻関係でつながっています。コロンブスの嫁の父親は、バーソロミュー・ペレストという人で、テンプル騎士団のグランド・マスターであり船長でもありました。コロンブスの船の帆に赤い十字架が書いてありました。それはまさにテンプル騎士団のマークですね。かぎつきのXの文字は実はコロンブスの手描きの署名にもあるのです。かぎつきXはテンプル騎士団と関係があり、後になってフリーメーソンとなんらかのかかわりがあるかもしれません。というのはフリーメーソンにはシンボルが大切で、かぎつきのXはラルソンペーパーというフリーメーソンの書類にも描かれています。財宝は実は形のあるものではなく、フリーメーソンがアメリカにもたらした聖なる幾何学や、科学、天文学、完全な国家をつくるという思想などの知識が財宝と考えることもできます。

 次回も不思議な話をさがして、書きましょう。

 

不思議な話 その38 アメリカ大陸を発見したのはだれか

 アメリカで出土した磨製石器が、ヨーロッパのフランスで出土した原始時代の磨製石器と一致していることから、アメリカに氷河期に陸地伝いで、ヨーロッパから移動した人々がいたかもということを、だいぶ前に私のブログで書きましたが、そんなに古い時代でなくても、新大陸といわれた北米と南米大陸は、コロンブスやアメリゴ・ベスプッチが大陸を発見したとされる以前から、その存在を知っている人々はもう、ヨーロッパに少なからずいたようです。そして、これもかなり前のブログに書きましたが、紀元後1000年前後に、優れた航海術をもっているバイキングがアメリカ大陸に到着していたらしいことも書きました。今回はその続きで、コロンブスより100年以上前に、西洋の人々が、アメリカ大陸に来て、土地の所有のしるしを置いて住んでいたらしいというお話について書きましょう。

 1898年北アメリカの中西部ミネソタ州ケンジントンで、スウェーデンからの移民の子孫のオロフ・オーマンという農民が息子達と畑のポプラの木を切っていました。根が巻きついていた地中の大きな石の二面に何かの文字がほってあるのをオロフさんは見つけました。その文字は彼の先祖の古代文字であるルーン文字に似ていました。彼はこの発見をニュース・フラーデンという新聞社に知らせました。そこの記者がやってきて、その石とポプラの木を調べました。そのポプラの木は樹齢25年、ポプラの木が巻きついた石の裏には根の跡が付いていました。

 世間はスウェーデン系のオロフさんが自作自演したのではないかと疑いました。その石の文字は新聞社から、古代スカンジナビア語の言語学者に送られ解読されました。ミネソタ大学の言語学者、オランス・ブレーダさんとイリノイ州ジョージノースウェスタン大学のジョージ・カラム教授が翻訳しました。その内容は次のようなものです。

「スウェーデン出身の8人のゴート人そして、22人のノルウェー人がフィンランドの西から発見の旅に出た。北の方角に1日旅をする。私たちは1日中釣りをして戻ってみると仲間が血まみれの状態で、息絶えていた。悪から救い給え。残った仲間に船を見張らせた。」石に刻まれた年は1362年とありました。この年代は暗号化した数字で、二重に日付が書かれていました。これは中世のある組織の年代の書き方だそうです。

 古代スカンジナビア人は、アイスランドからグリーンランドを通り、ニューファンドランド島を抜け、ハドソン湾から1600kmの距離を、川などに沿って、アメリカ中西部ミネソタ州のケンジントンにたどり着いたのではというのです。

 ニュートン・ウィンチェルという地質学者が依頼されて石のサンプルを抽出し相対年を調べたところ、石が彫られたのは、1800年代から数百年以上前という結論になりました。

 1960年にニューファンドランド島ランスオメドウというところで、バイキングが住んでいたとみられる紀元後1000年ごろの石の家の集落の遺跡が発見されました。その近くに文字の彫られたような石があったそうです。

 ケンジントンのルーン文字の石はアレクサンドリアのルーンストーン博物館に今でも展示されているそうですが、2000年に博物館は再び石の鑑定の依頼をしました。スコット・ウォルターという専門家が調べました。オロフさんがくぼみの溝の浅いところを読めるように釘で細工した跡はあったそうですが、1806年の移民の墓石と比較して、黒雲母の風化具合から、1800年初めから数百年前に彫られたものであると結論付けました。文字が書かれた年代が1362年と彫られているので、その年に記したのだと言ってよいのではないかというのです。

 そのケンジントンの石碑のルーン文字には、1300年代当時に使われていないXの右端にかぎがついた暗号のような文字が入っていたのでおかしいと物議をかもしたのですが、これがテンプル騎士団の使っていた文字に一致するという論を展開する人がいます。つまり、1300年半ば、コロンブスがアメリカ大陸に来る100年以上前に、テンプル騎士団は北米に来ていたのではないかというのです。

 次にテンプル騎士団の歴史について簡単に書きますね。テンプル騎士団は、中世ヨーロッパで、第一回十字軍の派遣後1096年に創設されました。1099年にキリスト教徒がイスラム教の人々から、戦いに勝利したことによってエルサレムを奪って、砦をつくりました。テンプル騎士団は、キリスト教徒がエルサレムへの巡礼の旅が安全に行われるように組織されました。戦争はその他の地域ではまだ、つづいていたのです。騎士団は、巡礼者たちが現金を持ち歩かなくてもいいように信用手形を発行しました。騎士団が保有する資産は貴族であった騎士団員が所有していた不動産や、貴族や王族からの寄付された土地などでした。それを換金して国際的な財務管理システムを騎士団は作りました。テンプル騎士団のもとはシトー修道会(現在のトラピスト会ともいわれています)で、中近東で200年以上活躍しました。

 1128年にローマ法王によってテンプル騎士団は正式な騎士団となり、中世の経済に大きな影響力を持つようになります。

 テンプル騎士団はシトー修道会と同じように、指揮官を擁立し、農業の発展に取り組み、経済のシステムを作り資金を集め、莫大な資金力で金や物の流通を仕切っていくようになります。

 創設から200年近く、テンプル騎士団とシトー修道会はタックを組み、中世の産業に革命をもたらします。テンプル騎士団は何艘もの大きな船と莫大な資金を手に入れました。

 フランス王フィリップ4世は騎士団から借りた金を敵国との戦争に費やし、返済不可能なほどの多額な借金をします。1307年策略家のフランス王はテンプル騎士団を亡きものにしようとしました。彼らを排除すれば、借金が帳消しになり、テンプル騎士団が支配したフランス国内の土地を没収できると考えました。

 フランス王の策略で、テンプル騎士団を異端とする告発がされます。騎士団は入会時にいかがわしい性的儀式をするとか、キリスト以外の偶像を礼拝しているという噂が立てられます。フィリップ4世はフランス教会をローマから引き離し、騎士団の排除への圧力をかけます。

 1307年10月13日の金曜日に、テンプル騎士団は逮捕され1か所に集められ拷問の後、火あぶりになります。ここから後世にテンプル騎士団の伝説がたくさんできました。

 1307年13日の金曜日に逮捕されたのはテンプル騎士団の10~20%位だといいます。残った騎士団の人々は、財宝を幌馬車に積み、フランスのラロシェという土地まで運び、ポルトガルかスコットランドに行ったという言い伝えもあります。スコットランドがイングランドとの戦いに勝てたのは、テンプル騎士団の金銭的支えがあったからなのでしょうか。

 他の莫大な財宝はもっと安全な唯一の場所、つまりアメリカ大陸に運び込まれたのではないかと考える人もいます。テンプル騎士団は先にあげた年を暗号を含め二重に日付を表わす(イースターテーブル)習慣があったようです。また、彼らはかぎつきのXを使ったというのです。テンプル騎士団と関係の深いシトー修道会も特殊なルーン文字を使うそうです。ケンジントンの文字にはその他Rに点が彫られていたのですが、シトー修道会の文字にも、点のついたRの文字があるそうです。

 次回はテンプル騎士団がアメリカにいたさらなる証拠とテンプル騎士団と関係の深いスコットランドの貴族の王子ヘンリー・シンクレアそして、それに一致するアメリカインディアンの伝説を見て行きましょう。
プロフィール

観音寺りえ

Author:観音寺りえ
アトラス研究所の観音寺りえです。

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