不思議な話 その45 ゴールドの伝説(後半)

 黄金伝説の後半です。
 
 世界中の歴史上の科学者が権力者に頼まれて研究していたのは、黄金を作り出す方法でした。中世の時代は「錬金術」といわれ、黄金の研究とともに科学が発展してきましたが、いまだに効率の良い黄金を作る方法は発見されていません。ですから経済的にもその希少価値から、値段が高値で安定しているわけですね。現代や近未来は「錬金術」も可能かもしれません。というのは、ある細菌が、バイオフィルム(自分の細胞外に分泌した多糖類のシート状の構造物)という菌の膜(まく)を作る性質があるそうです。関係ないですが、人間の歯に付く細菌も虫歯のバイオフィルムです。ぬるぬるしたものでプラークを作る場合は人間にとってあまり歓迎出来ませんね。それと同じ仕組みなのでしょうか?外部の環境変化や化学物質から菌自身を守るため、なんと自身の中に取り込まないように黄金を固める性質のある菌類が発見されたのです。

 オーストラリアのクィーンズランド金鉱床で、発見されたバイオフィルムは、黄金でできていたそうです。これは細菌のバイオフィルムが金鉱石を溶かすことによってできる金イオンが、バイオフィルム内に生息する細菌にとって有害なため、細菌が再びその金イオンを金のナノ粒子へ変換することで細菌自身への影響を無毒化する時に出来る副産物として、その細菌のバイオフィルム内に金が蓄積して結果的に金塊になるそうです。この細菌によってできる金塊は、金鉱石と比べ、純度が高いそうです。銀や水銀を含みません。この細菌の金のナノ粒子変換能力を高めてたくさん増やすと、海水中や川の中に含まれる細かい金の粒子を固めて、極めて純度の高い金を安価で作ることが出来るようになるかもしれません。まさに現代の賢者の石ですね。しかし、皆が作れるようになれば、金の
価格は少し下がるでしょうか?でも金(きん)が手に入りやすくなるのはいいことだと思います。技術力が高いほど、金を多く作り出すようになるかもしれません。工業的にもより金が使いやすくなり、技術がさらに発展するかもしれません。鉄の時代が終わり、黄金の時代が来るかもしれませんね。

 過去のブログの「不思議な話39」でも書きましたが、14世紀から15世紀のテンプル騎士団の黄金伝説はいろいろな説があります。エルサレムの神殿の丘に聖なる金の遺物、つまり、金の聖杯があったという伝説があります。聖杯といえば、キリストの最後の晩餐でキリストが使った杯を皆が探していて、それを持つと、さまざまな奇跡を起こすことが出来るといいます。

 テンプル騎士団の財宝の話に戻りますと、その財宝はフランスを追われた十字軍の生き残りがテンプル騎士団をつくり、自らもテンプル騎士団の一員であったスコットランドの貴族ウィリアム・シンクレア卿が騎士たちの子孫や財宝を守りました。100年の間は、スコットランドのロスリン礼拝堂のどこかに財宝が、隠されているという伝説があります。ロスリン礼拝堂は、一部ソロモン王の神殿をまねて作られました。そのデザインは変わっていて、柱は人のDNAの二重らせん構造そっくりなものもあるそうです。聖杯がその柱に隠されていると考える人もいますし、テンプル騎士団の財宝は、物ではなくて、人類の知識や叡智だと考える人もいます。

 ウィリアム・シンクレア卿から100年後、シンクレア家の子孫ヘンリー・シンクレアは、財宝を守るために家来たちと船に乗り、大西洋を西に向かって謎の航海をしたと言われています。テンプル騎士団の財宝は、カナダの東海岸ノバスコシアに隠されたのでは、という話は前にも書きましたね。今でも宝探しをする人はいます。

 「不思議な話38」の「アメリカを発見したのはだれか」でも書きましたが、書いたとおり、その宝物(聖なる遺物も含めた金銀財宝)の一部は、アメリカ大陸にも隠されているとの伝説があり、これも現在でも宝探しをしている人がいるといいます。『聖杯はヘラクレスの柱の向こうに眠っている』という暗号めいた文章も残されているそうです。

 もう一つ黄金の伝説といえば、私がたびたびブログで書いている、シュメールの伝説で、シュメールおよびアッカド神話に出てくる神々の集団です。話の中に五十柱の偉大な神々と、イギキという小さな神々がいます。アヌンナキの長は、偉大なるそらの神で、都市ウルクの守護神である「アヌ」で、他の神はアヌの子供たちです。都市ニップルの守護神エンリルと、腹違いの兄弟である都市エリドゥの守護神エンキの争いに、エンリルが勝利し、指導者となります。エンキは淡水、知恵、魔術をつかさどる神で、錬金術師でした。イギキがシャパトウにストライキを起こし、世界を維持する作業を続けることを拒否した時、エンキはしかたなく人間を作って作業をさせて、神々が働かなくてよくなったといいます。

 ゼカリア・シッチンという人は、この神話から、このアヌンナキが創世記のネフィリムで、技術的に進歩した人類と類似した姿を持った地球外生命体だったという奇想天外な説を書きました。地球外生命の本拠地はニビル星で、アヌンナキ達は45万年前に地球に到達し、鉱物資源、特に金(きん)を探索、アフリカで鉱脈をみつけ採掘を行ったと考えました。これらの神々はニビルから地球への植民地に出され、金などを掘る労働をする神々だったが、作業がつまらなくて、奴隷作業をする人類を地球外生命体の遺伝子と猿人ホモ・エレクトスの遺伝子と掛け合わせて、人類を遺伝子学的に設計したと考えました。シッチンは古代の神話の文献によって、メソポタミアのシュメールの文明はこれらの神々の指導のもとで行われ、人間の王は人間とアヌンナキとの仲介の役目をしたとしました。

 シッチンはさらに地球外生命体同士の間で起こった戦争で核兵器が使用され、シュメールの都市ウルに放射性降下物がふり、これが神話での「悪しき風」であるとしました。シッチン自身は、自分の調査は多くの聖書に書かれていることと一致するとしています。けれども彼の説には反対意見が多いです。

 スイスのエーリッヒ・フォン・デニケンという人は、惑星が地球に近づいて創造主が地上に降りてきたとせずに、ペルーのナスカの地上絵が宇宙船の発着陸の目印と考えました。そして、伝説の神々は宇宙人で、銀河間のいろいろな星を行き来できるとし、やはり、人間は宇宙人によって遺伝子操作によって作られたと考えました。

 さらに金にまつわる奇想天外な説として、ギザのピラミッドが他の元素から金を精製していた工場のようなものであったのでは、という説があります。その説を唱える人々は、ギザのピラミッドは紀元前3000年に作られたのではなく、もっと前、今から1万年以上前に作られたと考えました。今は、雨の降らない砂漠地帯ですが、雨による浸食の跡があるというのです。これはスフィンクスにも言われていますね。

 古代エジプトでは金(きん)は神の肉体と考えられており、当時の最大の供給国でした。バビロンやアッシリアの王がエジプトの王に金を懇願したといいます。金に対する考えは距離的には離れているのに前回紹介した、南米のコロンビアの黄金伝説に不思議と一致しています。どちらも、「黄金は太陽神の一部だという」話です。

 次回もまた、私が不思議に思えることを探求しましょう。
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不思議な話 その44 エル・ドラード 黄金の伝説

 金(きん)は人類の歴史の中で、もっとも愛されている金属であり、その輝きは人間を魅了してきました。昔は、金本位制で貨幣は金の裏づけをもっていたし、古代では金そのものが貨幣でした。メソポタミア文明から使われており、古代での金の最大の産出国はエジプトでした。エジプトは紀元前3000年くらいから資源が豊かで、経済、食糧、技術、軍事力どれも世界で最高レベルだったのです。

 現在、世界のこれまで採掘され精製加工された金の総量(地上在庫)は、約16万トンといわれています。(2009年の統計による)最も金を持っているのは、USAであるとされていて、約8134トンで外貨準備に占める率は78.2%と言われています。

 2位がドイツで3413トン(外貨準備率66.3%)3位がフランスで2541トン(59.4%)4位がイタリアで2452トン(68.1%)5位がスイス銀行のあるスイスで1064トン(39.8%)日本は6位で765トン(2.1%)で戦争に負けたときに金の割合を増やしてはいけないとアメリカから言われたようですが、実は都市鉱床(電気製品や工業用の金)の日本の保有率は6800トンあり、全体では2位か3位かもしれませんね。全世界の金埋蔵量の16%になるそうです。6位の日本の次はオランダ、中国、インドの順です。

 「エルドラード」という言葉はよく耳にしますが、意味を深く考えたことはありませんでした。今はゲームの中に出てくることばであったり、商品名だったり、歌詞の中にでてきたり、遊園地の回転木馬の名前につけられていたりしますね。一般的に使われている意味は「黄金郷」という意味で、このエルドラドにまつわる不思議な話があります。

 南米コロンビアのグアタビータ湖の付近にエルドラードの伝説があります。16世紀にスペイン人がここにやって来た時、ムイスカ族という人々が住んでいました。ムイスカ人は金(きん)を金銭や経済的価値の為に使用したのではなく、神につながる支配者の権力を知らしめる為に用いたり、霊性の高いものとして用いていたようなのです。スペイン人は「金箔をかぶせた」「黄金の人」という意味でスペイン語の「エル・ドラード」と呼びました。

 誰が、金箔をかぶせた人かというと、ムイスカ族の儀式の中で、西洋では王にあたる一族の酋長ジップという人が、べとべとする樹脂を体に塗って、その上に体中に金粉をつけ、湖底の神にささげる黄金を船に乗せ、湖のある場所で黄金を投げ入れ、酋長は、湖で泳いで、金粉を湖に落としたというのです。ムイスカ族の人々にとっては、金は太陽神の汗にたとえられ、神である太陽には触れられませんが、黄金は唯一彼らに触れることのできる、神の一部を象徴しているものだったのかもしれません。

 このグアダビータ湖周辺から発掘された黄金の遺物や儀式の道具、装飾品、動物のオブジェ楽器などに黄金が使われていて、部族によって、デザインや技術が少しずつ違うそうです。古代にしては、高度で複雑な金細工の技術を持っていました。残念なことに、その多くは欧州諸国に略奪され、大英帝国博物館などに眠っているようです。もう一つ南米の黄金の伝説があります。

 インカの伝説の都市パイチチの話です。南米の「黄金郷」の伝説が広まり、インカ帝国が栄えたのと同時期にペルーかボリビアに、謎の都市パイチチが今もなお隠れているというのです。

 また、クスコのコリカンチャという所には金で覆われた祭壇があるらしいのですが、コリカンチャには、古代に巨大な黄金の空飛ぶ船があったという伝説があるそうです。黄金の円盤は空から落ちてきて、皇帝の目の前で落下し、コリカンチャの人々は、その円盤を神からつかわされたものとして、大切に保管しました。空から神がおりてきて、金を採掘したというのです。

 1533年にスペイン人はインカの黄金を求めて、クスコの町を襲撃しました。スペイン人がクスコの町に来ることを、神からのお告げで知っていた神官は、一族の人々とともに、神にささげる黄金をクスコから30km北西に行った町へ運び、その後湖に沈めたのだ、という話もあります。

 その時の黄金の宝探しをする人々が今もいるそうです。次回も黄金にまつわる伝説をさがしてみましょう。

 

不思議な話 その43 キューリー夫人の話(2)

 マリー・キューリー夫人は、女性で初のノーベル賞受賞者で、さらに人類初の2回のノーベル賞(物理学賞・化学賞)の受賞者です。

 1898年7月キューリー夫妻はポロニウムという新元素を発見し発表しました。さらに12月には、ラジウムと名付けた新元素を発表しました。時期尚早だったのか、当時の学界の反応は冷淡だったといいます。今は皆が知っている元素ですね。夫妻は実験に関わる経費を自己負担し、妻を亡くした義理の父親の面倒を見る為に、一戸建てを買ったりして、金銭的には困ったようです。二人とも教職を続けて、実験をしました。ラジウムの実験では、1トンのピッチブレンド(混合鉱石)から精製したわずかなラジウム塩化物が十分の一グラムとれたそうです。でも試験管や蒸発皿から発光がみられたといいます。マリーはこれを「妖精の光」といいましたが、何の防御もしていないと、もちろん強い放射線がでて人体には有害ですね。

 1902年にマリーを応援していた彼女の父親が亡くなり、夫婦の体調は悪くなり、夫はリウマチになり、妻は流産します。放射線を浴びたことによる影響もあったのではないかと思います。二人は1899年~1904年に32もの尋常でない数の研究発表をしました。二人の発表は学会に革命を起こし、元素は不変と考えられていた定説を覆しました。

 1900年ピエール・キューリーは、放射線が生物組織に影響を与えるという医者の報告に対して、自分の体で人体実験をします。今から見ると無茶な事ですが、ラジウムを腕に貼り付け、やけどのような損傷を起こしました。医学教授と共同研究した結果、変質した細胞を破壊する効果が確認されて、悪性腫瘍等を治療する可能性が、あげられました。現在行われている癌の放射線治療のきっかけはここだったのですね。

 第一次大戦後にやっと、科学者によって、放射線被ばくによる人体の影響の危険が研究されるようになり、マリーは自分以外の研究員には、手袋や防護服を着るように厳しく言っていたのに、彼女自身はラジウムを手づかみで防護しなかったので、手はラジウムやけどの跡だらけだったということです。キューリー夫妻は、自分たちの利益を考えずに、特許をとらず、ラジウム精製法を、だれでもわかるように公開しました。フランスの実業家は世界で初めて、ラジウムの工業生産をしました。夫妻がアドバイスして、ラジウムは医療分野へ提供されていきます。

 夫婦の研究をいち早く、高く評価したのは、イギリスでした。二人はイギリス王立協会からメダルをもらい、1903年12月にスウェーデン王立アカデミーはピエールとマリー夫婦そして、アンリ・ベクレルにノーベル物理学賞を授与します。

 賞金は7万フランもあったそうです。パリ大学は研究費と設備費を増やし、ピエールを物理学教授にしました。妻のマリーは実験主任となり給料ももらいました。彼女は2度目の出産をし、夫の父親が娘たちの面倒をみました。

 夫のピエールは教授職も研究も忙しく充実していたのですが、思いがけないことが起こります。1906年4月19日の雨の中で、通りを横断した際にピエールは馬車にはねられて、即死してしまいます。愛する夫を亡くしたマリーはまた、母を亡くした時のように、情緒不安定になりますが、パリ大学はピエールの役職と研究室を、マリーの為に維持することを決め、彼女はパリ大学初の女性教授となります。まさにキューリー夫妻を育てたのは、フランスですね。

 マリーは、アンドリュー・カーネギーから資金援助を受けて、研究に没頭し、『放射能概論』という本を出版しました。第1次大戦中にマリ-は娘たちをあずけて、ヴィルヘルム・レントゲンが1895年に発見したX線撮影による医療行為の手助けをしました。戦争のけが人の具合をみるのにX線はとても役に立ったのです。彼女はレントゲン車を作り、医療器械の操作(今のレントゲン技師のようなこと)をしましたが、このとき、多量の放射線を浴びたのではと言われています。マリーが設置したレントゲン設備は、病院や大学など200か所にもなり、レントゲン自動車は20台にもなったといいます。レントゲン装置にはラドンを使うようになり、ラジウム金属を使って、ラドンの気体をチューブにつめる作業の際に多くの被ばくをしたのではないかと言われています。

 その後いろいろな功績を残し、マリーは1932年に65歳で転倒をして右手首を骨折し、その傷がなかなか治らなかったそうです。1933年に胆石にもなり、1934年には結核の疑いで入院したところ、血液検査で再生不良性貧血との診断がでましたが、これは白血病によるものという説があります。彼女は1834年7月4日に66歳で亡くなります。やはり、放射線の被ばくの影響の為だと思われます。マリーのノートや本や実験器具からは今でも高い放射線が出ているといいます。

 裏話としては、マリーの夫の死後、彼女はまだ38歳と若かったので、一緒に大学で研究をしている夫の教え子だった男性ポール・ランジュバンと恋愛関係になります。彼には妻子がいたので不倫ということになりますね。ポールの妻がこのことを知ってやきもちをやき、二人の関係はマスコミにリークされ、女性で研究者で、大学の教授で、ノーベル賞をとった彼女は世間の嫉妬の為かマスコミにたたかれて、彼女はユダヤ人で不倫しているとか、夫が死ぬ前から不倫していたとか事実でない事をでっち上げられてたたかれます。
 
 彼女は事実はユダヤ系ではなかったようです。ポールの妻は裁判で慰謝料と養育費をとろうとしましたが、そのスキャンダルの最中に2度目のノーベル賞の受賞式があり、周りから「出席を辞退したらどうだ」といわれましたが、アルバート・アインシュタインが彼女の味方となり、絶対受賞式にでなさいとアドバイスします。彼女は堂々と参加しました。

 この彼女のスキャンダルをめぐっては、ライバルの新聞社同士の編集長の決闘と、不倫相手ポールと彼を記事で叩いて名誉を棄損した記者との決闘がありましたが、どちらも重傷にならずに、和解したといいます。

 次回も面白い不思議な話を探しましょう。

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不思議な話 その42 科学者 マリー・キューリー

 マリー・キューリーさんは、世界中の人々に有名な科学者ですが、その運命は女性差別の強かった19世紀末の時代では、とても特異で不思議な人生でした。彼女はポーランドのワルシャワで1867年に生まれました。本名はマリア・サロメ・スクウォドフスカといいます。彼女の父親は下級貴族で、ペテルブルク大学で数学と物理学を教えていた科学者でした。彼女の祖父も物理と化学の教授でした。彼女の母も下級貴族で、女学校の校長を務めた教育者でした。

 彼女は5人兄弟の末っ子で、4歳の時には姉の本を朗読できて、記憶力も並はずれていた、天才だったそうです。下級貴族なのに、豊かではなく、帝政ロシア政府はポーランドの知識層に弾圧をかけ、彼女の父親は、大学の職を失います。母親は体を壊し、父親は金融の投機に失敗して、一家はさらに貧しくなります。1874年にマリーの姉のゾフィアがチフスで亡くなり、1878年には母親が結核で亡くなります。14歳の彼女は子供なのに鬱病になったそうです。

 1883年にギムナジウムを優秀な成績で卒業しましたが、女性にはそれ以上の教育を受ける機会が与えられなかった時代でした。ワルシャワでチューターなどをしていた彼女は、移動大学などで学びました。姉のプロスニワバが薬学の勉強をしていましたが、彼女は学費の一部を助けようと、住み込み家庭教師をします。父方の親戚の家で家庭教師をしていた時に、その家のワルシャワ大学生の長男と恋に落ちますが、結婚しようとすると、彼の両親から猛反対を受けあきらめます。

 1890年に医師と結婚した薬学を研究していた姉が、パリで一緒に住もうと誘いました。恋人と別れたばかりのマリーはパリに行きます。恋人だった男性も後に数学者となりますが、美貌のマリーと結婚できなかったことを後悔したといいます。

 1891年当時のヨーロッパでは、女性が大学で勉強する機会は、きわめて少なかったのですが、幸運なことに唯一、パリ大学では、女性でも科学教育を受講できました。彼女は名前を「マリア」から「マリー」に変え姉夫婦と住まずに、パリのアパートの屋根裏部屋に住んで、極貧の生活をしながら、働きながら学びます。努力を続けて、友人の協力で奨学金もとり、1893年に物理学の学士資格を取ります。

 その後マリーはフランス工業振興会の受託研究をして、お金を稼ぐことが出来るようになります。27歳の1894年に彼女がやっていた仕事、鋼鉄の磁気的性質の研究を行う場所を探していたところ、友人の夫が35歳のフランス人科学者ピエール・キューリーを紹介してくれました。

 「彼はハンサムで長身で瞳は澄み、誠実で優しい人柄だけれども、奔放な夢想家」と第一印象を語っています。ピエールもブロンドで美しく賢い彼女に一目ぼれをして、二人は恋に落ちます。彼は彼女に再三のプロポーズをし、彼女は仕事と研究があったので、長い期間、迷いましたが、1895年に二人はお金をかけないごく、質素な結婚式をあげます。

 この結婚が彼女を研究上の幸運へと導きます。彼女の人生の道筋はすでに書かれていたわけですね。やらなければならない使命にむかって彼女は懸命の努力をしていきます。

 彼女は研究も続けながら、家事もしっかりやりました。当時の女性としては何人分もの働きをしたと思います。彼女は娘を産み、育児をしながら、鋼鉄の磁化についての研究論文を仕上げました。夫と博士号所得にむけて、フランスの物理学者アンリ・ベクレルが研究していた、ウラン塩化物の放射する透過力のある光とエネルギーを夫婦で研究し始めます。ベクレルはなぜか途中で研究を放棄していました。彼女はウランやトリウムの放射を証明する実験をして、この放射を放射能と名付けて、このような現象を起こす元素を放射性元素と名付けました。そして、二人はこの発見をすぐに発表しようと努力します。

 当時でも科学の分野では、最初に研究発表するものの業績になったわけです。同じような研究をしている人が、他にもいたのですね。夫婦は1898年4月12日に科学アカデミーに論文を提出したのですが、トリウムの放射能に関しては、2か月前にゲアハルト・シュミットという科学者がすでに発表してありました。

 マリーと夫の努力はさらに続きましたが、残念なことに放射性物質を含んだウランなどの危険性は当時は知られていなかったので、かなり体には危険な状態で研究していたものと思われます。命がけの研究になりました。

 後半は裏話を含め次回に書きます。
プロフィール

観音寺りえ

Author:観音寺りえ
アトラス研究所の観音寺りえです。

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住所: 東京都文京区千石4-37-10 
TEL: 03-3942-1341
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