不思議な話 その71 古代ローマの皇帝と技術、滅亡の原因(3)

 AD67年から79年まで帝位についたウェスパシアヌスという皇帝は、後継者が絶えた為、貴族出身ではない将軍から成りあがった皇帝です。彼は、英雄でローマ軍をたくさんの勝利に導いたので人気がありました。なかなか賢い皇帝だったようで堅実な性格で、質素で飾り立てるのが嫌いな皇帝でした。

 彼は古代ローマ帝国で最初の円形闘技場(コロッセオ)を作りました。これは前の皇帝が作った人工湖の水を抜いて造られた世界でも最大級の巨大な闘技場でした。その大きさは、7万人の観客が入れた広さでした。現代のように全席指定席で、水のみ場は120か所あったそうです。信じられませんが、今のドームのように全天候型で、雨の時は天幕が出て観客が濡れないような技術がありました。

 この天幕は船の帆の技術を応用したそうです。AD80年に彼の息子のティトウスが皇帝になった時に、コロッセオは完成しました。少し残酷な話ですが、5000匹の野獣が殺され、犯罪者や剣闘士やキリスト教徒数千人が命を落としました。コロッセオは3階建ての作りになっていて、その地下に水道が通っていました。闘技場へ水を入れる入水の技術と排水の技術がありました。排水の水は近くのテネベ川に流れました。

 観客に海戦を見せたいときは、競技場に水をいれて海にみたてて船をうかべ、海戦演習をしました。現代にこのような施設をつくることは大変難しいと思います。地下は2階になっており、エレベーターがあり、はね舞台のように、剣闘士や猛獣や処刑される人が地下から急に現れました。

 ウェスパシアヌスは税を考えるのに優れ、変わった税を作り、莫大な税収を自分の為に使わず、ローマ市民の為に使いました。パンとサーカスといって、ローマ市民の娯楽の為にお金を使い、不満を避けようとしました。そのやり方は息子のティトウスや孫のドミティアヌス皇帝に引き継がれました。

 その後は皇帝ネルウァが政治をとり、AD98年から117年まで、皇帝トラヤヌスが初めてローマ以外のスペイン出身の皇帝となりました。当時のローマ人は「ローマは大きくあるべき」と考え、ローマの中はもちろん、植民地への街道の修理、港の整備、飲料水の水道橋の修理をしました。

 ネロの宮殿のあと地に巨大な公衆浴場を造りました。その莫大な資金の為に、今のルーマニアやハンガリーのダキアから金銀や財宝を出させました。

 トラヤヌス皇帝はローマ帝国の領土を最大にしました。そこから得た資金を公共投資にまわしました。

 ローマ広場は、当時の最先端の文化の中心で、裁判所や図書館、公共の施設がありました。政治、経済が発達し、貨幣がたくさん作られ、繁栄して、ローマは100万人の大都市になりました。最高のコンクリート技術が使われ、中央広場は土地不足となりました。その為、広大な平らな土地が必要となり、建設計画が立てられ、昔からの大きな丘の壁面が削られました。何万人もの奴隷が働いて、丘を削り丘の石を小さくして運びました。88万立法メートルの岩山を削ったといいます。そうして、5万平方メートルの平野ができました。素晴らしい建築物が出来、現代のショッピングモールのような市場が造られました。中央に高さ38メートルの大理石の円柱にトライアヌスの物語を彫って、広告塔にしました。

 トライアヌス広場は700年栄え、大地震で崩れたそうですが、広場は6階建てで今も残っているようです。市場は100店舗以上の店が入っていました。トライアヌスは優れた指揮官でリーダーシップがあり、優れた建設者でもありました。
 
 次の皇帝ハドリアヌスはローマの富の防衛に壮大な計画を立てました。万里の長城5年で防御壁を兵士に作らせました。これは良いアイディアでした。国境を造ることによって、異民族の侵入を防ぐことが出来ますし、国境を守る兵士の数を、圧倒的に減らせましたし、少ない人数で軍事力を保つことが出来ました。長城に沿って、病院や公衆浴場、食糧 、物資補給の市場ができました。植民地の長城の城下町では、ローマ兵士の望む物資が集まり、生活レベルが高いので地元の人々もローマ風を好みました。

 長くなったので、次回にまとめますね。
 
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不思議な話 その70 古代ローマの皇帝と技術、滅亡の原因(2) 

 ローマの皇帝制のきっかけとなったシーザーが暗殺された後、初代の皇帝になったのは、彼の姪の息子、オクタビアヌスでした。彼は後に皇帝アウグストゥスとなり、古代ローマの都市の基盤を作りました。彼は道路を整え、中心の広場を作り、劇場をつくり、円形競技場を建設しました。アウグストゥスはとても賢い人だったといわれています。権力を集中させたシーザーのように憎まれることなく対処しました。

 ローマ様式の町は近隣の国々のあこがれとなり、当時としては、ローマの文明は最先端で、生活水準が高く、いい仕事があって、植民地として征服されても、人々はローマの生活様式を受け入れました。植民地でも奴隷以外の国民はローマの民となりました。ヨーロッパでローマの遺跡が多く残っている都市は、ロンドン、パリ、ボンなどです。彼らは現在でも古代ローマのことを悪く言いません。それは各都市にローマ人が道路を作ったり、水道を作ったり、建物をつくったりしたからでしょう。

 古代ローマはあの時代の他の国にはない高度なコンクリート技術を持っていました。石灰と水だけではなく、ローマはポゾラという物質を入れて、現代のように強いコンクリートを作ることが出来ました。

 ローマの水道技術は、市民の生活を目覚ましく発展させました。毎日約75立方メートルの新鮮な水がローマに届けられました。新鮮な水の供給によって市民の生活レベルは向上し、清潔な生活も出来、人口も急激に増えました。
 
皇帝 クラウディウス(在位AD41~54)は身体に障害があったのですが、優秀な皇帝でした。彼は水道橋を造ったことで有名です。彼はブリタニア(今のイギリス)を征服し、クラウディウス水道や新アニウェス水道を作りました。

 クラウディスは水が高いところから低いところを流れる技術を利用して、傾斜をつければどこへでも流れて行くことを知り、30メートルごとに山から町までの距離を 計算して、水道橋を建設しました。山の中に水を流すときは、トンネルを掘りました。山から平地にひかれた水路は石造りの壁の上を通り、壁の高さが2メートル以上になると、壁に計算して強度を与え、建築素材が節約できるアーチ工法を使って、高架橋を建設しました。アーチは建築力学にのっとっており、建物の耐久性を高めるそうです。アーチ工法は当時としては、極めて高度な技術です。

 クラウディウス水道の高架橋は石の覆いの下に川のように水が流れていました。裕福な市民は、自宅に水道をひいて、その料金を払っていました。水道はその他、公共の水道と公共噴水、公衆浴場にふんだんに使われました。公衆浴場は下は奴隷から上は貴族まで平等に使うことが出来ました。クラウディウスはローマの水の供給を発展させた賢帝なのですが、先のカリギュラ帝の妹アグリッピナに対しては言いなりでした。アグリッピナは気の強い、野心的なうぬぼれた女性で、連れ子である自分の息子を皇帝にする野望をもっていました。クラウディウス皇帝は妻に毒殺されたと言われています。

 その連れ子の少年は後に皇帝になるネロ(在位AD6です4年から)です。彼は残酷な皇帝の1人として有名で、ローマを造り変えたかったから放火したとか母親を亡きものにしたとか言われていますが、これらの悪口は後のキリスト教の時代になってねつ造されたとも言われています。ネロは優れた皇帝でもないし、悪い皇帝でもないという説です。ネロの母親は夫を暗殺し、ネロに帝位をつがせ思い通りに牛耳ろうとしたが、息子が言うことを聞かないので、彼女が息子を暗殺しようとしたので、逆に皇帝である息子から処刑されたのだ、という説があります。放火説もネロは火事を知ってすぐ駆けつけて陣頭指揮をとったが、その火災地域が、彼が自然公園を建設しようとしていた地域だったので、放火したのだと悪口を言われたのではないかというのです。

 母親が夫を暗殺してなった皇帝だったので、非難がつきまとったのかもしれません。
キリスト教への迫害も、他の皇帝の方が実際には凄かったといいます。悪い皇帝の代名詞のように言われているので、少し気の毒な気もします。彼は後半、身分のある自分の部下を処罰したのに行きすぎがあったのは事実のようです。ネロは恨まれて、元老院から国家の敵とされ(AD68年)兵士につかまりそうになったので、自害しました。ネロは市民の為か自分の為か、黄金宮殿をつくりました。AD104年にネロに反発する勢力によって、その宮殿は埋められ、なんと発見されたのは16世紀になってからだそうです。黄金宮殿は多くの装飾をした宮殿でなにもかも、もりこんでグロテスクの語源になったようなごちゃまぜの装飾だったようです。

 後継者がいなかったので、貴族出身でないベスパチアヌスという将軍が、皇帝の位につきました。彼は円形闘技場(コロッセオ)を建設しました。そこはローマ市民の娯楽の場所でしたが、残酷な場所でもありました。

 次回続きを書きましょう。そしていよいよ、古代ローマの滅亡の原因を探りましょう。






不思議な話 その69 古代ローマのずば抜けた技術と滅亡の原因

 映画「テルマエロマエⅡ」を記念してか、ヒストリーチャンネルで「古代ローマ帝国の先端技術」(Rome Engineering an empire)の特集をやっていたので、それを参考にまとめて、古代ローマ帝国のずば抜けた技術を考え、なぜ他の国よりも何百年も最先端技術を持ちながら、紀元後400年前後には東西に分裂して、西ローマ帝国はその100年後くらいに滅んでしまったのか考えます。現代文明の反面教師として役に立つかもしれません。

 ローマは伝説によると、軍神マルスがアルバ・ロンガという国の王女レア・シルウィアに産ませた双子の兄弟が造った都市だそうです。この双子の兄弟は陰謀によって捨てられて、二人ともメスの狼に育てられたといいます。この双子の兄弟の兄をロムルスといい弟をレムスといいました。人々の住んでいるところに来て、二人は王女の息子ということで、ローマを統治することになるのですが、どちらが治めるかで争いが起き、兄ロムルスが弟レムスを殺し、兄の名にちなんで、都市はローマと名付けられたというのです。言い伝えでは紀元前753年がローマの起源と言われていますが、実際はもう少し遅く、紀元前7世紀(BC600年代)に出来たのだと言われています。そのころは、ローマはエトルリア人の支配する土地でした。エトルリア人は、小アジアからイタリアのトスカーナ地方に移住した人々です。ギリシャ文化を積極的に取り入れ、ローマを支配し、都市建設、宗教(ギリシャの宗教の影響)、儀式、土木建築技術をローマ人に教えました。

 社会からの追放者を受け入れたので、当初はならずものの都市とも呼ばれましたが、誰でも住める避難所のような都市にしようとしたので、開放的で自由な精神から、技術や先進的な文化が生まれやすい素地がありました。エトルリア支配の時の技術を、ローマはさらに発展させることができたのです。

 日本にとても似ているなと思った点は、よそから取り入れた技術を自分たちの目的(たとえば、道路を造るとか、橋を造るためとか)に応用してさらに高度なわざを付け加えることが出来たことです。

 ローマは王国から始まり、民主的な共和制となり、BC55年ころのガイウス・ユリウス・カエサル略してシーザーによって皇帝が治める帝国になります。シーザーはご存じのように、BC45年に単独支配をもとめたので、議会の中で暗殺されます。例のクレオパトラの恋愛と結婚、子供も出来たことで知られていますね。シーザーは戦いに強くて、人々からねたまれるのと同時に英雄として、尊敬されてもいたのです。

 実は、シーザーの軍団は優れた建築技術を持っていたのです。紀元前55年ころシーザーは4万人の8軍団を率いてフランス、ベルギー、スイスのガリアを属州にしました。シーザーの軍はゲルマニア(今のドイツ)に侵攻するのに、大きいライン川は渡るのが障害になりました。4万人の軍をボートで渡らせるのも至難の業です。そこで当時の技術としては信じられないことですが、水の流れが速いライン川に臨時の橋を造って、4万人の兵隊を渡らせることをシーザーは考えました。幅400メートルの川に4万人を渡らせる橋を造ろうというのです。材料はライン川のそばに生えている木材です。今の技術でも、短期間の制作は困難とのことです。軍の中に土木の建築技術者がいて、設計したものと思われます。流れの速い川に橋脚が斜めに打ち込まれました。まっすぐ杭を打つより斜めに打つ方が難しいそうです。橋脚の上に幅60センチの横木が置かれ、床板が敷かれ、板の上に人があるけるような枝が密に敷かれました。その橋の制作を、シーザーは10日でやらせたのです。敵のゲルマン人は、ローマ軍が何もないところに、ローマ人が来て木を切り倒し、10日で橋をつくって渡って来たのを見て、未知の宇宙人の文明が来たように驚いたことと思います。

 ゲルマン人は戦わないで、山に逃げて行きました。シーザーの大軍団は橋を渡って、十分に土地を探索し、さらに凄いことに、18日後にはその橋を何もなかったかのように解体してしまいます。橋を残しておくと、ゲルマン人がそれを渡って逆に攻めてくることを警戒したのでしょうか?このガリヤ征服で、ローマの共和制が終わり、シーザーは終身独裁官(ディクタトル)となり皇帝制の基礎を作りました。

 古代都市ローマは、紀元前600年から紀元後400年くらいまで、1000年にわたって栄えた都市です。世界中の文明の盛衰を見て行くと、文明は高い方から低い方に流れて行き、その流れは誰にも止めることはできません。ローマは戦いの中で領土を広げ、属国の国々に自分たちの文化を取り込むようにさせました。周辺の国々は征服されて、怨むというよりは、生活水準が上がるローマ風文化を歓迎しました。

 ローマは移動手段の革新的進歩をうながしました。彼らの移動手段は、地中海における水路、船による海上移動か、陸上では、歩くか馬に乗るか馬車の移動です。ローマ帝国ができるまで、世界には道路というものが存在しませんでした。BC312年頃、首都ローマから南部のカンバニアまで、211kmの舗装された道(アッピア街道)をローマ人は造りました。すぐれた測量技術があったのです。この道路は予定の場所の土が掘り出され、砂と砂利をしきます。その上に大きな敷き石を並べて、雨水の排水溝まであります。まさに現代の道路技術のようですね。

 この完成された道路はローマの技術力の高さを支配された国々に見せつけました。もしローマに反逆すれば、その道路を通って強いローマ軍がすばやく、反抗した国々に到着することを印象づけました。

 もうひとつの脅威的な技術は、ローマ人のすぐれた建築技術と、それを支えたコンクリート技術です。紀元前から世界で唯一、ローマにコンクリート技術がありました。次回はシーザーの甥のオクタビアヌスが皇帝となって、アウグストゥスとなり、その後の皇帝が、都市をどのように作っていったかを見て行きます。
 

不思議な話 その68 鬼について(3)

 子供の頃、何かで「なまはげ」の映像を見たか、実際に見たのかは定かでないのですが、「なまはげ」がとても怖かったことを覚えています。「なまはげ」は今では重要無形民俗文化財になっているようで、秋田県牡鹿半島に伝わる風習です。男の人たちが、ある季節、確か冬だと思うのですが、各家庭を「悪い子はいねか~」「親の言うこと聞かね~子はいねか~」と言ってわらの蓑を着けて、鬼の面をかぶり偽物の包丁を持って、子供たちに会いに来ます。子供たちはその姿に怯え、良い子にすると約束するという風習です。鬼の扮装をした人は、シリアスに怖い声を出して脅します。大人でも怖いくらいです。

 「なまはげ」の語源は「なもみ」という手足にできるやけどの意味で、東北などで、なまけて囲炉裏にばかりあたって、ごろごろしている子供たちをいましめたことから、いろりにあたりすぎて、できたやけどの「なもみ」を包丁で剥ぎにくる鬼ということから、「なもみはぎ」がなまって「なまはげ」になったといいます。ここでは、鬼は子供を脅してはいますが、良い道に導く役割をしていますね。

 前にも書きましたが、中国では、鬼は「グイ」と言って死後「魂魄」(こんぱく)になり、「魂」(こん)は天に昇り、「魄」(ぱく)は肉体なので地に帰り土になりますが、死者の国(あの世)から帰ってきて、幽霊や亡霊となり、人に祟るものが、中国では「鬼」です。「鬼」は「帰」(き)に通じるのです。

 基本的には中国では、特別な場合を除いて、人間はすべて死ねば鬼になります。中国でも鬼はすべて恐ろしいだけの存在ではなく、極めて人間的です。かならず人間に恨みを持っているというわけではなく、人間とともに暮らし、食事も恋愛もして、鬼と人間の恋愛の話もあります。生きている人間との間に子供をもうけるという話もあります。日本でいうところの「妖怪」のような存在でもありますね。

 中国では、あの世とこの世は別のものなので、基本的には死者(鬼)の姿は生者には見えません。鬼を見る能力のある者もまれにいたそうです。心残りや恨みのある者は多くの生者にも見えることがあります。ちゃんと供養してお祭りをしてもらえない鬼も食べ物や紙銭(お葬式の時に中国や台湾では紙で作ったお金や家や車や財産や紙の使用人などを棺に入れて埋葬します。あの世に行ってもお金が必要なので困らない為です。)を求めて姿を現します。鬼は生前の自分の姿や死ぬ直前の姿で現れます。日本の幽霊と同じですね。むしろ、日本の幽霊観や祖霊信仰は、中国の影響を受けたのでしょう。

 鬼は生きている人間を基本的には、直接傷つけることはできないというルールがあるようです。中国の物語では、恨みを晴らすために、この世の官吏に訴えて、この世の法律で裁きを求めるという物語も多いそうです。

 中国の物語で、鬼が神の代理をしている話があります。観音菩薩などの廟は中国各地にあり、1人の神様や仏様では、対応できないと、天界から任命された鬼が、廟の運営を代行したりするそうです。この代行は高収入?なので、鬼同士のその仕事の争奪戦があったり、その廟を大蛇や白い大猿やキツネなどの妖怪に乗っ取られて鬼が追い出されるという話まであるそうです。まるで、妖怪大戦争ですね。

 亡くなった人にご飯や食べ物を供えるというのは、欧米の風習ではあまり耳にしませんね。欧米のドラマでは、明るい芝生などのお墓に花束を置いたり、お酒の好きだった故人の墓石にお酒を注ぐのは見たことがありますが、お供え物の作法のようなものは、アジアのようにはないようです。祖先の墓や仏壇に毎日供物をささげる風習は、アジアでも、仏教国の中で限られた地域ですね。祖霊崇拝も世界の中では少数派です。ルーツを探ったり、お城や財産のある家柄以外は、欧米の人々(キリスト教やユダヤ教)は先祖代々をお祭りするということは、あまりないようです。イスラム教は詳しくは分かりませんが、同じだと思います。

 話を鬼にもどしましょう。鬼のキャラクターや考え方が入ってきたのは、仏教が入って来た時と同じくらいではないかと思います。というのは、日本で最古の建造物である法隆寺(聖徳太子が作ったと言われている年代建立)の金堂にある仏像多聞天の足に踏まれている生き物はなんと、鬼の姿をしているのです。これは飛鳥時代に想像されて作られた邪気(じゃき)仏教での鬼の姿です。日本の紀元後500年代の飛鳥時代に、鬼の姿が知られていた証拠ですね。

 仏教の世界では、(お釈迦様以後の人々が考えた世界観です。)「六道輪廻」(ろくどうりんね)という考え方があります。上からレベル分けしていますが、天・人・修羅・畜生(動物)・餓鬼・地獄というふうに六つの世界の中で、鬼は文字通り、餓鬼界と地獄にいます。餓鬼界はつねに飢え苦しみ、欲望のかたまりの世界です。地獄では閻魔大王さまが裁判をして、生きていた時の罪を検証し、地獄に落ちた亡者に罰を与えて苦しめるのが、確か鬼の役目だったような気がします。この六道輪廻は、今の仏教では代表的な考え方ですが、お釈迦様の説いた古代仏教では、地獄という考え方はありません。対比される極楽もありません。

 私は、これは仏教が理論から庶民の間に広く普及した時に、信仰をわかりやすくするために付け加えられた思想だと思います。生き物はこの六道を生まれ変わるので、「秩序を守って良いことをしなさいよ」という教えになっているのです。人はレベル分けが好きなので・・・

 仏像では鎌倉時代の運慶が毘沙門天を造ったときに、鬼の姿も彫っています。毘沙門天の足に踏みつけられている姿です。その姿は悪党というよりも、悪さをしたやんちゃな子供のように可愛くもあります。お寺の門などを守っている不動
明王の姿も、その怒りや威嚇の容姿から、鬼の姿を連想することがあります。

 鬼は欧米の悪魔と違って、単なる悪者ではなく、罪を犯したり、間違ったことをしていても、仏教の教えの光明を受けて改心し、逆に仏教を擁護する弟子のような存在と解釈され、仏教や人々を守る役割を仰せつかった為に、人々から愛されている側面もあるのかもしれません。ちょうど、日本に古代からある神々と仏教が混じり合い(神仏習合)した時も、
神は仏の守護神になったりしました。鬼も神と同等に扱われる時もあるのです。

 次回も面白い不思議なテーマを探しましょう。 
プロフィール

観音寺りえ

Author:観音寺りえ
アトラス研究所の観音寺りえです。

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住所: 東京都文京区千石4-37-10 
TEL: 03-3942-1341
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