不思議な話 その75 バラと歴史(ボタニカル・アート) 薔薇十字団(導入)

 6月24日から8日間イギリスに古代遺跡の調査と透視に行くので、次回の更新は、今日から10日後以降になりそうです。遺跡以外でも不思議な話関係で、透視から面白いことがあったら、ブログに書きますね。日本ではあまり一般的に知られていないかもしれないオークニー諸島の古代遺跡も見てきます。

 今回はバラのお話の続きです。ジョセフィーヌの話です。ナポレオンとジョセフィーヌの恋愛の温度差(ナポレオンがジョセフィーヌを恋い焦がれた時は彼の気持ちが強く、彼女はそうでもありませんでした。離婚後はジョセフィーヌの方がナポレオンをより思っていました。)がずれて、離婚になった後に彼女を癒したのは彼女の素晴らしい庭に咲くバラと、植物学者やバラの詳細画を描く画家との交流でした。

 彼女が愛したバラを精密に写し取ったのは、天才画家のピエール=ジョセフ・ルドゥーテ(1759~1840年)でした。写真機のないこの時代に植物の細密画のボタニカル・アート(植物画)が流行りました。当時のルドゥーテは植物研究者の為に図譜を描いて有名になりました。彼は「花のラファエロ」とか「バラのレンブラント」と呼ばれました。略歴を調べると、彼は1759年に現在のベルギー南東部リュクサンブール州の町サンチュベールに、3人兄弟の次男として生れました。13歳からフランドルという場所に画家修業の旅に出た彼は、有名な花の画家ホイスムの作品に出合い、画家として、花を描く新しい世界に踏み出します。23歳になったルドゥーテは装飾画や舞台装置の仕事をしていた彼の上の兄のもとで働くために、パリに住みました。
 
 その仕事の合間に彼は、王立植物園に通い、いろいろな花を観察して描きました。その王立植物園で、彼は後にボタニカルアートの世界に彼を歩ませることになる、植物学者レリチエと出会います。そして植物図譜制作の仕事につきます。その実力を認められたルドゥーテはレリチエの推薦でフランス王妃マリー・アントワネットの博物蒐集室付画家となります。

 フランス革命が起こり、王室や有力貴族の失脚後、ナポレオン后妃ジョセフィーヌから後援を受けます。変革の時代に生きた数奇な運命の画家だと思います。

 ジョセフィーヌは彼女のマルメゾン宮殿の「秘密の花園」に集められた愛するバラをルドゥーテに描かせました。これがルドゥーテの代表作『バラ図譜』(1817~1824)です。その後、彼は王立植物園付属自然史博物館の専任植物画家となり有名になります。王侯貴族や著名人も彼を招いて公開授業や個人教授を頼むようになります。

 当時の貴族のたしなみは音楽やラテン語などの語学、絵を描くことや文学の朗読でした。彼らは学校に行くより学者や芸術家の専属の家庭教師をつけていました。

 特に貴族の女性からの人気は高く「花のラファエロ」と呼ばれ{パリのすべての女性が彼の生徒か信奉者だ」と言われたほどでした。この時期には『ユリ科植物図鑑』(1802~1816)、『ジャン・ジャック・ルソー氏植物園』(1805年)、『美花選』(1827~1833)など彼の代表作が制作されました。

 彼は生まれつきの絵を描く才能だけでなく、努力で新しい技法を編み出しました。それは点刻彫版(スティプル・エングレーディング)という多色刷り銅板画技法です。今までの植物画から輪郭線をなくし、版に無数の点をうち、色を埋め込む高度な技法です。植物画にこれを用いたのは、彼が初めてだそうです。きめ細かい色彩の濃淡で、自然な花の美しさを表現したということです。彼はがんこに花だけを描き続け、ボタニカルーアートを完成に導きました。

 いくつか彼の絵を目にしたことがありますが、彼の花への愛情が見てとれますし、彼の描いたジョセフィーヌの花園の絵からは、ジョセフィーヌのバラに対する深い愛情も感じられます。

 話は変わりますが、私が先月買った「平和(ピース)」というバラは、白桃のようなクリーム色と縁が薄いピンクなのですが、有名な品種だったことが分かりました。買った時は全然知らなかったのですが、「ピ-ス」という品種はF・メイアンという育種家の作品で第二次大戦に巻き込まれる直前に、このバラに自分の母親の名前をつけ、戦争の終結の願いを込めて各国に送りました。6年後アメリカのコンクールで賞をとった際に、戦争終結の知らせが届いた為、平和を祝い、新たにピースと名付けました。このバラはサンフランシスコ講和会議の壇上にも飾られたそうです。もちろん戦争当事国でもあった日本にも贈られたことでしょう。いまあるピースはその子孫なのです。

 バラの名前のついた戦争といえば、バラ戦争です。これは1455年から1485年の30年間続いた、イギリスの王位継承をめぐるお家騒動です。

 なぜバラという名前がついたかというと、赤バラの「ランカスター家」と白バラの「ヨーク家」との間の戦いだったからです。エドワード3世の孫の正当な後継者リチャード2世(エドワード3世の長男の息子)を従兄弟のヘンリー・ボリングブルック(エドワード3世の4男の息子)が廃位に追い込み、ヘンリー4世として王位についたことから始まりました。このいきさつは、たしか、イギリスの劇作家ウィリアム・シェークスピアがヘンリー4世を主人公として戯曲で書いていると思います。

 ヘンリー4世の息子ヘンリー5世はフランス軍に勝って、一時的にフランスを占領します。ヘンリー5世の息子がヘンリー6世になりますが、戦争にうとく、フランスの血もひいていて、エドワード3世の5男の孫ヨーク公リチャードに反乱を起こされます。そして、ヨーク家軍がランカスター王家軍を破り「バラ戦争」が起こります。ヨーク家は勝利したのに、さらに自分の家のお家騒動で自滅してしまいます。

 ヨーク公爵リチャードの長男エドワード4世が病気になると公爵の4男リチャードが、4世の12歳と9歳の王子をロンドン塔に幽閉して殺害してしまいます。シェークスピアは「リチャード3世」を主人公にしても書いています。シェークスピアにしてみれば、100年近く前の、不思議な運命のお家騒動に興味をそそられたのですね。

 1485年のボズワースの戦いでランカスター家(赤バラ)のヘンリー・チューダがリチャード3世を打ち破ってばら戦争が終わります。

 とても長くなりましたが、薔薇十字団という名前の秘密結社のさわりだけ書きます。事の発端は1614年に神聖ローマ帝国(その一部は今のドイツ)のカッセルで刊行された『全世界の普遍的かつ総体的改革』とそれについていた『友愛団の名声』で世に知られるようになりました。噂ではこの背景にバラを象徴するイギリス王家を、中世の時代のカソリック絶対支配のハプスブルク皇帝家(今のオーストリア)の支配からの救い主として迎え入れようとする運動です。1618年にはドイツの30年戦争が起きています。バラ十字団の提唱者はクリスチャン・ローゼンクロイツという人で、この団体はその創始者の意志を継ぎ、、錬金術(当時の最先端の科学)や魔術などの古代の叡智を使って、世の人を救おうとしたといいます。

 ローゼンクロイツの前のこの考え方の起源ははっきりしませんが、錬金術師(科学者)やカバラ学者(ユダヤ教の秘法)が各地を旅行して、知識の交換の必要から生まれたという説やフリーメーソンと関係があるという説があるので、順次見て行き書いて行きましょう。
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不思議な話 その74 バラの薬効・歴史上の人物とバラ

 古代ローマでは「バラを食べると幸せになる」という言い伝えがありました。

 エジプトのプトレマイオス王朝(マケドニアやギリシャ系)の最後の女王クレオパトラ7世(BC69~30年)が最も愛した香りはバラで、女王は優れた才女で、ヘブライ語、アラム語、ペルシャ語、ギリシャ語、ラテン語、などを通訳なしで話したといいます。香料をたくさん製造し使用できたエジプトは、香料の輸出もしていて、バラの香油は豊かなローマへ輸出されました。クレオパトラは果樹園ではなく、香樹園を持っていました。

 古代のエジプトでは、香料は金、銀、宝石以上の高価なものでした。クレオパトラの手に使用する香料代だけで400デナリウス(400万円)の莫大な金額を使ったと言われています。バラから香油をとるのも現代のようにたくさんは採れなくて、非常に高価だったそうです。輸出品の香料はエジプトにとっては、貴重な収入源でした。

 彼女は、シーザーやアントニウスを誘惑するのに、香りのよいバラの花びらを部屋に50センチもの厚さに敷き詰めたといいます。

 才女で美しいクレオパトラは当時ローマの最高権力者だったシーザーと彼の暗殺された亡き後は、シーザーの部下だったアントニウスと恋人関係になって、エジプトを守ってもらおうとします。その時に、バラの香りが活躍したといいます。

  バラの薬効の一つに催淫作用があるそうです。その他にバラはたくさんの薬効があります。

 バラの香りでエジプトの窮地を救ったクレオパトラでしたが、シーザーの甥のオクタビアヌス(後の初代ローマ皇帝)にまで取り入ろうとしたのですが、オクタビアヌスはエジプトに攻め込んで来て、アントニウスは戦死します。クレオパトラはローマ軍が上陸して宮殿に来る前に、毒蛇にかまれて自害します(39歳で)。彼女を見守ったのは、専属の占い師と調香師でした。クレオパトラは好きなバラの花の香りに包まれて、亡くなったのではないでしょうか?

 ローマの博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥスは、AD76年に書いた『博物誌』の中で、浴槽にバラの花を満たした「バラ風呂」によって肉体を若々しく保つ事が出来ると記しています。その本にアンチエイジングだけでなく、胃痛、歯痛、不眠症、傷、炎症など32種の症状の治療にバラが役に立つとしています。

 古代ペルシャでは、バラの花びらを浸して、香りをしみこませた油脂を、鎮痛剤として使っていました。

 中国の漢方では、バラと同じ種のハマナスの花が肝臓や血液の病気に効くとされています。

 インドのアーユルベーダではバラは身体のバランスを調整し、若返らせる効果があると考えられました。特に、心臓、眼、皮膚に効果を表わし、血液の病気に効くとされていました。

 近代ではバラにはさまざまな芳香分子が存在することが分かってきました。最近の研究では、香料の成分にストレスを抑える効果があることが分かってきました。ストレスにさらされると、コルチゾールというホルモンが分泌されて、免疫機能に影響を与えるといいます。ある研究所で、ストレスを与えられた被験者に、バラの香りをかがせた場合とそうでない場合、香りなしでは、血中濃度は平均35%増加し、香りがあった場合は増加しなかったそうです。研究所ではバラの香りがストレスを緩和したと、結論づけられました。

 バラの香油の抽出方法は10世紀には確立し、アラブ人の医師アウィケンナが発明した水蒸気蒸留法が使われたとされています。

 キリスト教圏ではバラは修道士たちの瞑想と祈りを助けるものでもありました。レッドローズは中世では、「薬屋のバラ」と呼ばれました。ビタミンCの供給が不足した時期には、ローズヒップのお茶などが良く飲まれました。 私も大好きです。

 バラの薬効は数え切れないほどありますが、女性のホルモンバランスを整える・胆汁の出をよくする・更年期障害の改善・消毒・内臓機能促進・血行不良改善(血液循環を活発にし、心臓の充血を緩和させ、毛細血管を強化する。)・精神不安やよくうつ症状の改善・月経障害や月経痛の緩和・吐き気おう吐便秘の改善・胃腸障害の改善・脂肪分解・目の炎症改善・頭痛の改善・不眠や冷え症の改善・美肌、アンチエイジング効果などがあります。   

 歴史上、バラの品種改良や普及に最も貢献し、バラを愛した女性はナポレオンの最初の妻であったマリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリです。ナポレオンと結婚する前はローズと呼ばれていたので、彼女がバラが好きな理由もうなづけますね。ナポレオンと結婚してからはジョセフィーヌとよばれました。

 彼女は少女のころに、不思議な事ですが、占い師にその未来を予言されていたそうです。「最初の結婚は不幸になるが、そのあとで女王以上の存在になる。」と・・・その予言は後になって実現しました。

 彼女の略歴を調べると、彼女は貧しい零落した貴族の娘でした。1779年にアレクサンドル・ボアルネ子爵と結婚して一男一女を持ちましたが、夫婦中が悪く、1783年に子供を連れて離婚しました。後にボアルネ子爵はフランス革命の時にギロチンで処刑されたので、ジョセフィーヌは離婚していなければ、やはり処刑されていたかもしれません。

 その後フランス革命ののち、生活の為に彼女は総裁政府のポール・バラス氏の愛人となり、美しい彼女は、社交界の花となります。これも運命の不思議ですが、バラス氏が彼女に飽きてしまい、友人のナポレオンに押し付けたとも言います。ナポレオンは美しい彼女に惚れて、熱烈なラブレターを送り、結婚します。彼女は大変もてたので、ナポレオンは妻の浮気を知り、やきもちと浮気をなげく手紙を敵のイギリスに奪われてしまい、新聞に載ってしまいます。ナポレオンは彼女によって恥をかかされたと思い、離婚を決意しますが、連れ子の義理の子供たちに懇願され離婚を思いとどまります。

 1804年にナポレオンがフランスの皇帝になり、ジョセフィーヌも予言の通り、フランスの女王以上の存在の皇后陛下になります。その後ナポレオンは愛人が出来、子供も生まれたので、ジョセフィーヌと離婚します。離婚後も二人の仲は悪くなかったといいます。ジョセフィーヌは離婚後も多額の年金を支給され、パリ郊外のマルメゾン城に住み、「ナヴァル女公皇后陛下」と呼ばれ人々から慕われました。

 ナポレオンが敗戦した時も、心配して助けたのはジョセフィーヌでした。しかし彼がパリに帰ってくるのを待たずに肺炎で亡くなりました。最後の言葉は恋する夫ナポレオンの名前とエルバ島でした。ナポレオンが2度目の流刑で、セントヘレナ島で亡くなったときも、最後の言葉は「フランス、陸軍、陸軍総帥、ジョセフィーヌ」だったそうです。

 18世紀末のヨーロッパで世界一のバラコレクションを作ったのはジョセフィーヌです。マルメゾン宮殿には250種以上のバラが集められました。当時高価なバラを一つの所に多く集めることは、非常に贅沢でした。彼女はローズという名前だけでなく自然豊かな島で育ち、植物全体もだいすきだったそうです。彼女はイギリスからバラの苗を取り寄せていたので、フランスと戦争になり、輸出入が禁止になっても、他の国のバラ愛好家経由でバラをとりよせたといいます。彼女はより美しいバラを求め続けて、育種家が招かれ、バラの人工授精が行われたのです。新種のニューモデルのバラはバラ愛好家をひきつけ、マルメゾン宮殿はフランスのバラ栽培の拠点になりました。彼女の費やした費用は国家予算の3分の1とも言われています。お金をかけて愛するバラの品種を増やし、美を追求して行った彼女のおかげで、今の多種多様なバラがあるのかもしれません。

 長くなったので、次回はこの続きを書きますね。
  

不思議な話 その73 薔薇(バラ)の起源とそれにまつわる歴史

 今日から3回シリーズで薔薇(バラ)について書きましょう。1回目は起源と薬効など。2回目は人間の歴史にかかわるバラの花。3回目は歴史の中でも秘密結社、薔薇十字団についてです。

 花の中で、私が一番好きなものは薔薇です(以下薔薇十字団以外、カタカナでかきますね。)その色、形、香り、とげがあってさされても、その気高い姿に惹きつけられるからです。
これまでの品種改良を含め、赤、ピンク、黄色、オレンジ、クリーム色、白、最近では紫、青色、黒に近い深紅もあります。黒はまだないそうです。

 バラは古代から人間の歴史にかかわっています。いや、人間の歴史よりバラの歴史のほうが古いようです。サルから人が分かれたという通説によるとヒトの起源は、今から700万年まえから500万年前だそうですが、これには諸説あります。また、ネアンデルタール人は滅びたことになっているのですが、栄えたのが30~20万年前、。今から3万年くらい前にネアンデルタール人が滅んで、その人類と混血していたのか、新生人類はそれ以降に爆発的に増えます。

 バラの起源は今から7000万年前と言われています。前に書いたように、植物は、その起源が古く、ある面では人間より進化しているともいえます。

 世界最古のバラは、ある説では、ヒマラヤ山麓に群棲していたそうです。今と気候も異なっていたでしょう。ロサ・シノウィルソニー(Rosa sinowilsonii)と呼ばれる中央のおしべとめしべが黄色い一重(花弁が5枚)のちょうどイチゴの花のような白い小さな野バラです。この花は現存しており、今も育てられています。生きた化石ですね。

 
 ちなみに、今が旬のイチゴもバラ科です。人間の先祖の遺伝子をたどるのと同じようにたどっていくと、ロサ・シノウィルソニーに行きつくそうです。

 バラを人に贈る場合、本数の意味するものは、1本は「ひとめぼれしました」という意味や「あなただけです」ということを表わします。奇数のほうがいいのか、3本は「愛の告白」を意味し、7本は「ひそかな愛」や「秘めた愛」、11本は「家族や最愛の人へ」という意味で付き合っている恋人や、配偶者、両親などの感謝のしるし、として送る場合に良い数です。費用は何万円?にもなりますが、勝負バラ99本は「永遠の愛」を表わし、108本は「結婚してください」という意味でプロポーズに贈るのに良い数だそうです。

 バラの色による花ことばを、いろいろな解釈の中で、簡単にまとめると、赤全体は愛情や情熱、貞節、美、熱烈な恋、それぞれ、赤の濃淡で意味がすこしずつ違うようです。黒に近いビロードのような深紅のバラは、「決して滅びることのない愛、永遠の愛」をさすそうです。

 ピンクは色ごとに象徴する言葉が違いますが、一般的ピンクは美しい少女、上品さ、気品、しとやかさ、温かい心の人、愛を待っています、とか満足しています、とか輝く人という意味があるようです。ブライダルに使われるピンクは愛情の象徴。ダークなピンクのバラは感謝を表わすそうです。

 白いバラは清純、純潔、相思相愛、素朴な人、心からの尊敬、恋の吐息を表わすそうです。白の種類もいろいろ花言葉が違って、つぼみは愛するには若すぎる、面白いのは、白のドライフラワーはあなたとの生涯を誓うという意味になります。お互いに老人になるまで、一緒にいるよということなのでしょうか?バラの原種のような一重の白いバラは素朴な人、純粋な人という意味です。

 黄色いバラは、友情、献身、可憐、美人、さわやか、あなたに恋しました。という意味です。私としては「初恋」という言葉も加えたいところです。ゴールドに近い黄色は「何をしても可愛いね」とか希望をさすそうです。黄色いミニバラは笑って別れましょうという意味もあるらしいので、気を付けましょう。

 比較的最近に作られたオレンジ色のバラは「恋愛の達人」(古いいい方でプレイボーイやプレイガール?でしょうか)魅惑、信頼、人と人の絆という意味があるそうです。

 紫のバラは少し前までは不可能と言われていたのに、いまでは普通に見られますが、花言葉は、誇り高い、気品、上品、高貴な、ロイヤル(王様の王座)、身分の上の人への尊敬を意味します。

 青いバラは奇跡的に出来たのか、神への祝福、奇跡、夢がかなうことを意味します。

 私は大輪の薄ピンクのバラの鉢(4月のパリという名前です)を持っていますが、病気や害虫対策など素人なので、大変です。その大輪のバラは香水のように香りが強いです。もうひとつは今年の5月に買った大輪のクリーム色のバラで縁が薄ピンクです。白桃のような色です。平和という名前のバラです。

 後は、赤と黄色(笑って別れてという意味でした・・・)、紫、と白と濃いピンクとベビーピンクとオレンジ色のミニバラを持っていますが、病気に弱いです。でも小さなバラで病気やアブラムシにやられても、枝だけになっても、次の年の春に芽が出て伸びて行く強さを持っています。見習いたいものです。

 バラはその香りと姿と成分で人を癒します。バラの天然の香油や香水、花びらは農薬がかかってなければ、食べることもできます。ダマスクスローズのバラの花を乾燥させたお茶、バラのお水、バラのジャム、バラの香りを付けた砂糖などがあります。
 
 なぜ、人はバラを育て、バラを愛するのか、次回はバラの薬効(体と心に作用する)とバラとバラを愛した歴史上の人物を見て行きましょう。

 

 

不思議な話 その72 古代ローマ帝国の技術と滅亡の原因(4)

 今日はこのテーマの4回目でまとめです。前回書いたハドリアヌス帝は、長城を造っただけでなく、ローマに足跡を残すために皇帝アウグストゥス時代に焼失した神殿パンティオンを、AD126年に再建しようとしました。資源とお金をおしみなく使って、46mの円形のコンクリート製のドーム型神殿を造りました。

 当時の優れた建築技術を示すものとして、ドーム天井の円形部分の重さをどうやって支え、分散させるかということでした。
ドームの基礎部分は垂直な壁で、ドームの天井に近づくほど、設計者はセメントに軽い素材を混ぜることを思い付き、基礎にはコンクリートに砕いた石を入れていたのを、上にいくほど素焼きの壺や水差しのかけらを混ぜました。パンティオン中央部にオルクスという穴をあけバランスをとりました。ハドリアヌス皇帝はダマスカスのアポロトロスという有名な設計者に依頼したのですが、ダマスカスは、ドーム型の天井には反対で、設計者の任を皇帝から解かれ、自殺か暗殺か分かりませんが、亡くなります。パンテイオンは、ハドリアヌス皇帝自身が設計したのではという説があります。

 そのちょうど、100年後くらいの皇帝カラカラは、恐怖政治で有名ですが、巨大な大衆浴場を造りました。彼は自分の能力を示す為に前の代の皇帝たちのように公共の浴場を建設させたのですが、男女別で時間によって交替制で、入場は無料で、どの階層の人も利用できたそうです。運動する所とマッサージ、爪のお手入れや散髪するところまであったそうです。現代のスパですね。さらに、水泳プールやお湯の温度が違う浴室、保湿ぶろやサウナのようなところまであったようです。

 その他大勢の人がくつろげる広間、食堂、商店、図書館、娼館まであったといいます。この大型の浴場施設は、古代ローマ人の技術の粋を集めました。建設作業員は、休みなく働いて、5000人から1万人の人々が携わったそうです。18900立方メートルの水を低温風呂や微温風呂、高温風呂と分けて燃料の薪を燃やし続けたそうです。大浴場を支えたのは、奴隷や下層の労働者でした。

 AD216年にオープンしたカラカラ浴場は、大理石を外国から輸入し、排水や下水道の整備も行われました。皇帝は豪華なドームや丸天井を造りました。この時代から経済状態はひっ迫してきたので、皇帝は大浴場のためといっていいいほど、外国に遠征に出て、さらなる金銀や宝石を奪って植民地を拡張しました。

 古代ローマ帝国は、その後300年代末まで、皇帝が続き、395年テオドシウス皇帝の後、東西に分裂します。395年に皇帝テオドシウスは自分の死に際して、帝国を東西に分けて息子達に分割統治させました。長男アルカデウスに東を、次男ホノリウスに西を与えました。

 私が古代帝国の滅亡と言ったのは、西ローマ帝国のことで、東ローマはコンスタンティノープルを中心にその後1000年近く栄えます。父のテオドシウス帝は、分割統治を軽い気持ちで思いついたのかもしれませんが、これ以降、東西のローマは再統一されることはありませんでした。

 古代ローマ帝国の滅亡を単純に考えると、東西に分割されたのが原因と考えられますが、3世紀以降軍人皇帝時代になって、戦国時代のように、属州の軍隊がそれぞれの皇帝を擁立して戦っていました。軍事面で一枚岩ではなかったのに加え、その弱みにつけ込んだのか、ゲルマン民族が西ローマ帝国に侵入して軍隊が弱体化してきました。

 また、奴隷制度が内から壊れて行きました。奴隷から解放されて平民になる人々が増え、解放奴隷や自由農民として、新たに「コロヌス」と呼ばれる小作人の制度ができました。これはヨーロッパの農奴制の基本になったものです。皇帝や軍隊は市民に重税を課し、経済的に行き詰った市民は、歩兵として軍隊に家族を送り出すことが困難になり、お金で雇われた傭兵を雇うようになり、忠誠心が失われ、軍隊は弱体化します。それと同時に水道橋や、長城や、道を造った高度な軍人たちの建築技術も弱体化します。

 宗教の分野では、コンスタンティヌス1世がキリスト教を国教にし、自らもキリスト教の洗礼を受けます。キリスト教は国教になったのに、その後、アタナシウス派(神とキリストと精霊が一体とする三位一体派)とアリウス派(キリストの人性を主張する派)に分かれました。アリウス派はビザンティウムへ遷都するときについて行き、東ローマ帝国のキリスト教(のちのギリシャ正教やロシア正教)になります。

 滅亡の原因はたくさんあり、たまごが先か、ニワトリが先かの議論のようですが、まず東西ローマ帝国の分裂があり、ローマの強さの原動力の軍隊が弱体化し、外国の異民族の侵入に会い、経済的には贅沢をしすぎて、皇帝は悪貨(質の悪い貨幣)を多量に作り、貨幣の力が無くなり、労働力の低下と市民の経済的疲弊、国庫の金の無駄遣いと、森林資源などの無駄遣いと贅沢などが総合的に影響し、滅亡の原因になったと考えられます。総じていうと植民地や属州などの領土が巨大化して支えきれなくなったのも問題でしょう。

 ローマ帝国と同じ轍を踏まないためには、グローバル化した現代と比べるのは難しいでしょうが、国庫のお金の無駄遣いを抑えることや、労働力の質の低下を防ぐとか、悪貨の製造ではないですが、自国の通貨の価値を下げ過ぎないとか、(円が安くなると市民、国民には不利益です。)森林資源は今の環境問題なので、水源や畑や森を守るといったことでしょうか?水と緑が失われた文明は滅びています。

 歴史は繰り返すとも言いますが、悪い流れの歴史は繰り返さない知恵が問われているのかもしれません。次回はまた別のテーマを探しましょう。

 
プロフィール

観音寺りえ

Author:観音寺りえ
アトラス研究所の観音寺りえです。

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住所: 東京都文京区千石4-37-10 
TEL: 03-3942-1341
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