不思議な話 その83 オークニー諸島(スコットランド)の不思議 とフリーメーソンこぼれ話

 イギリスでの透視の話もあと2回くらいですが、今回は日本でのイギリス人の知人の、御両親の家に1日だけホームステイしたときに聞いた話と、スコットランドの北東の端にあるオークニー諸島の古代遺跡の話です。

 友人のお父さんがフリーメーソンの会員だということをお父さん本人から聞いて、驚きました。年間の会費も3~4万円くらい、寄付があるが強制でないとのことで、「今度はフリーメーソンの中で、自分のグレイドがあがるんだよ」、と言っていました。会員2人からの推薦を受ければ入れるそうで、イギリスでは、イギリス人の紳士が入る慈善活動もしている大人の社交クラブといった趣なのでしょうか?そのお父さんは、ファイナンス(金融)関係の仕事をしているので、金融関係の会員が多いのかな?と思いました。

 ロンドンで「フリーメーソングランドロッジ」の見学もしました。ツアーが無い日だったので、全部は見られませんでしたが、展示品を見ました。衣装や皿やカップいろいろな道具に、例の定規を2本組み合わせたものと秤のシンボルが入っていました。すごく古い展示物があるというわけではありませんでしたが、ウェッジウッドのテイーカップなどすてきなものがありました。末端の会員は陰謀説などまったく意に介さないようです。

 ただ、ほんの一握りの大富豪で、世界を動かせるような資産や経済力をもっているような、フリーメーソンを動かしているような人々のことは、よく分からないことが多いですね。お金や経済力は大きな力になりますから・・・

 そのお父さんから聞いた内容で、スコットランドがイギリスから独立するかも、という話を聞いて、またびっくりしました。皆さんはご存じのかたも多いと思いますが、スコットランドは今年2014年の9月18日に、イギリスから独立するか、国民投票をするのですね。そのお父さん曰く、スコットランドは海底油田やガス田を持っていて金持ちなので、そのお金をイギリスの貧困層にまわしたくないんだということでした。スコットランドでは、医療も教育もイギリスと違ってタダなんだよと言っていました。

 イギリスの元首相のブレアさんは、スコットランド出身で、その時に、スコットランドは独自の議会を作ったとか・・・大方の予想では独立に賛成する人が30~40%、反対の人は50%と言われていますが、選挙や国民投票はフタをあけてみないとわからないですよね。

 スコットランド独立賛成派と反対派はその意見が、有名な人をも二分していて、ハリーポッターの作者(彼女は小説が売れて大富豪になる前は生活保護を受けていました。)は独立反対派、あと、ローリングストーンズのミックジャガーや宇宙物理学者のホーキング博士も反対派です。

 俳優のショーン・コネリーさん映画監督のケン・ローチさんは、賛成派と言われています。スコットランドは国として独立をして、イギリスのポンドを使わせてもらって、核の配備をやめてもらって、海底油田の利益は自分たちで使って、自分たちで国を守りたいようなのですが、イギリス側はデメリットが大きいのか、嫌がらせなのか、独立したらイギリスポンドは使わせない、と圧力をかけています。

 スコットランドは今はイギリスの一部ですが、アイルランドは大変な独立運動があり、アイルランド共和国として、今は独立しています。アイルランドの通貨はユーロでEUに加盟させてもらっていると思います。スコットランドも独立したければ、豊富な資源を手土産にEUに入りたいところなのでしょうが、イギリスとの経済関係をスパット切ってしまうこともできない事情があるのでしょう。今回は、反対派が国民投票で勝つかもしれませんが、独立のムーブメントは消えないような気がします。未来は独立するのではないでしょうか?

 アイルランド共和国はその島の北部にイギリス国教徒の北アイルランドがあり、カソリックであるアイルランド共和国と国境を接しているところでは、今も紛争が続いて戦争状態です。もとは同じキリスト教が宗派の違いで、殺し合いになることはとても胸が痛みます。

 さて、今日のテーマ、オークニー諸島は、今話題のスコットランドに属しています。透視の依頼を受けるまでは、私もどこにあるかはっきり知らない所でした。イギリス領のグレートブリテン島から北東の沖合にあります。2007年の人口は約19900人宮崎駿さんのアニメに出てくるような、のどかな田園地帯です。確かこの島のエネルギーの大半は風力発電でまかなわれているそうです。畜産と北海油田の石油産業、風力産業、海洋資源産業、観光業などがあります。

 オークニー諸島は約70個の島々で構成されていて、飛行機やフェリーでの移動が発達しています。

 オークニーの人口の75%以上は、メインランド島に集中していて、人口の数より羊の数のほうが多いといいます。ここの羊は牧草と海岸の海藻を食べます。多くの種類の野生動物がいて、くじら、イルカ、ユーラシアかわうそ、灰色アザラシ、ゼニガタアザラシ、珍しい種のカモメ、オークニーハタネズミという珍しい動物もいます。植物や花もここでしかみられないものがあります。

 ここの地域はスカンジナビア半島のノルウェーに近く、歴史上ノルウェー人(バイキング?)の支配を受けていたので、ノルウェーの血をひく人々も多くいます。もっと昔は、鉄器時代はブリソン語という言葉を話す、ピクト人の国でした。ピクト人の時代が終わると、古代ケルト系キリスト教のダルリアダ王国の一部になり、ゲール人の国として安定する前に、ノルウェーから多くの移住者が来て、オークニーはピクト人には若いイノシシかブタの意味で「ブタの島」と呼ばれていました。そのころから、ブタを飼って食用にしていたのでしょう。野生のいのししを育てたのでしょうか?
 
 ノルウェーのバイキングたちは、アザラシを食用にしたと思いますので、この島をアザラシの島を意味する「オークニー」と名付け、これが島の名前の語源になっているようです。

 ここオークニーには、紀元前6820年くらいから6600年くらいの間の、はしばみの実を焼いて食べた跡があり、新石器時代はある種の農業の跡も見られるそうです。新石器時代の集落跡と世界最古の墳墓とみられるものや、謎のストーンサークルのような巨大石の遺跡もあります。

 次回に詳しく書いて行きましょう。
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不思議な話 その82 テンプル教会の不思議

 テンプル騎士団とテンプル教会についての2回目です。前回は前にも書いたことのあるテンプル騎士団の歴史をざっとおさらいしました。

 テンプル騎士団の組織構成は、修道会だったので、会憲と会則(会の憲法と法律のようなものでしょうか?)があったそうです。会の発足には、シトー修道会の創設者で、ヨーロッパのキリスト教の世界で、強い影響力を持っていたといわれるクレルヴォーのベルナルドゥスの援助のもと、ベルナドルゥスが会則を書いたそうです。

 テンプル騎士団は各国に管区の長としてマスターと呼ばれる地区責任者がいて、騎士団全体を統率するのが、総長というグランドマスターだそうです。グランドマスターの任期は、ローマ法王と同じ死ぬまでです。東方の軍事活動(異民族と異宗教の戦い?)西方においては経済活動、資産管理など全体の責任を負っていました。

 テンプル騎士団は、4つのグループから構成されていました。
   ①一騎士ー重装備で貴族出身
   ②-従士ー軽装備で平民出身
   ③-修道士ー資産管理
   ④-司祭ー霊的な指導者
 
 1人の騎士に10人くらいの従士がついていたようです。テンプル騎士団は、十字軍に行った貴族など裕福な層の資産を
預かる役割もしていました。 また、テンプル騎士団は、入会者やその家族、各地のキリスト教の信者たちから寄付をうけることで、資産を増やしその額が莫大になってきました。ですから、フランス王に戦争の資金等を、貸すことが出来たのですね。テンプル騎士団のマークは赤い十字架です。旗は、黒字と白字の上にこの赤い十字架が描かれています。

 テンプル騎士団のユニフォームは、白い長い衣に赤い十字架のマークが入ったものです。騎士団の入会儀式では、入会への意志が固いかどうか試され、秘密の入会儀式が行われたそうですが、はっきりは分かりません。入会式が一般に分からなかったので、別のキリスト教の宗派から異端とされて、魔女裁判のようなものにかけられたのかもしれません。実際は、その秘密の誓いは、清貧、貞潔、従順などのシンプルな誓いだったようです。テンプル騎士団を壊滅させようとしたグループから、悪い噂をたてられ、無実の罪を被せられたのかもしれません。十字軍の頃は、キリスト教の為に、神の為に戦死することが、天国へ行く切符のように考えられ、怖くて自殺したり、軍を脱走したり無断で戦線を離脱し故郷等に帰ることは、地獄に堕ちると言われ、それを信じている人が多かったようです。

 イギリスのロンドンのテンプル教会の話に移りましょう。1307年のフランス王の陰謀でのテンプル騎士団の表面上の廃止後、フランスと対立していたイングランド王エドワード2世がテンプル教会をイングランド王家の管理下に置きました。その後、テンプル教会を借りて弁護士の法律学校、2校を運営していた聖ヨハネ騎士団に、教会が与えられました。現在のテンプル教会も、イングランドの法曹院と深い関係があり、インナー・テンプルとミドル・テンプルという法律関係の機関があるようです。

 1540年ヘンリー8世が、聖ヨハネ騎士団の活動を廃止してからは、テンプル教会は王家のものになりました。1608年に、ジェームズ1世の合意で、2つの法曹院に、教会の維持運営を条件として、礼拝堂としてのテンプル教会を利用し続ける権利を与えました。

 1666年のロンドン大火では、運よく被害から免れ、建築家クリストファー・レン氏によって補修、祭壇上のスクリーンの追加、オルガンなどが入りました。1841年と、1862年に2度補修されました。
 
 1941年の第2次大戦での5月10日のドイツ軍の空襲で、教会はひどく破壊され、木造部分とオルガンと大理石の円柱の一部は熱で破壊されましたが、大規模修復工事で持ちこたえられました。

 映画「ダビンチ・コード」は創作ですが、シオン修道会をキリストの聖杯(映画の中ではイエス・キリストの血を受け継いだ女性を指していますが)を守る役割をする秘密結社のように描いています。これに対してローマ法王の側の一般に知られていないグノーシス派という秘密組織をキリストに妻や子供や人間としての面があることを許さない組織として描いています。紀元後数十年頃のキリストの死後、彼の子を身ごもっていたマグダラのマリアが、迫害を逃れフランスに行ったという仮説を映画の原作者は創作して、とても複雑な面白い話が展開します。

 この「ダビンチ・コード」の映画の中で、テンプル教会が舞台となり、教会内が映し出されます。そこにウィリアム・マーシャル卿(初代ペンブルック伯爵)の彫像が出てきます。映画の主人公がなぞ解きをしながらテンプル教会に行き、この彫像は墓ではないと言いますが、何回見てもその理由は言っていませんでした。場面が切り替わってニュートンの記念建物の方に移ってしまいます。

 テンプル教会に実際に行ってみると、長い間守られてきて、その教会内のエネルギーは非常に落ち着いた穏やかな色をしていました。疲れを癒したい人や、喧騒を逃れて、瞑想などをしたい人には、向いているスピリチュアルスポットだと思います。

 ウィリアム・マーシャル(1146年~1219年)の墓とされている横たわった石の彫像にふれて透視してみました。その段階では、彼についてのことはあまり調べないようにしました。先入観が入りますので… 

 透視をしてみると、彼の顔が浮かんできました。茶色い髪で肩ぐらいまでの長さがあり、うねっています。戦いを経験した人のように感じられます。まつ毛が長く、彫りが深いしっかりとした顔立ち、正義感が強い感じが容姿に出ています。戦地に行って誰かを連れ帰った感じがしました。本当の激戦の地はさけることができたような気がします。王の命令を受けて、大切な役割を果たしたように見えました。誰か身分の高い人を連れ帰り、その人が持っていた財宝をいっしょに持って来たようなイメージがありました。イングランドに身分の高い人を連れ帰り、王のもとへ届け、それを何回か繰り返したように透視しました。フランスに潜伏したのかもしれません。

 日本に帰ってから彼のことをさらにネットで調べてみると、彼はイングランドでプランタジネット朝の騎士で政治家でした。伝説かもしれませんが、彼は生涯で500以上の御前試合をしたと言われていますが、1回も負けなかったそうです。初代ヘンリー王からヘンリー3世まで5人の王に仕えました。

 彼は最も立身出世した人物で、それぞれの時代の王に可愛がられました。トーナメントで勝ち続け、戦場へ行き、騎士を
育て、やがて戦場を退いて、政治家になります。私が見たのは、戦場を引退する前後、政治家になる前の彼の行動だったのかもしれません。1人の兵士であったウィリアム・マーシャルは、5人の王に信頼され、誠実に仕え、爵位を受けました。
敵の大将からも一目置かれたと言います。

 彼は73歳までの生涯で、騎士道を復活させ、騎士道を進め、黄金時代を築いたと言われています。彼の逸話では、彼はヘンリー2世の代理の十字軍の参加でテンプル騎士団の活動に感銘し、死ぬ時はテンプル騎士団として埋葬されたいと望み、その願いがかないました。そして、英雄としてテンプル教会の墓所に埋葬されたのですが、テンプル騎士団の人々をある意味助けたのではないかと感じました。その活動は子供や孫やその末裔の人々に引き継がれたと思います。ウィリアムの死後、彼の墓の横に子や孫かもしれない墓の彫像があるのは、彼らがテンプル騎士団を守るのに貢献したか、守る組織を作るのに貢献したからだと思えます。その人々や組織の人が、この教会を守ったのです。

 ウィリアムの墓の横には長男の墓、下に位置して横たわる彫像は、右と左でそれぞれ三男、次男の墓ではないかと言われています。ウィリアムは10人の子供がいましたが、息子達には全員子供が無く、爵位は娘婿が継いだと言われています。ドイツ軍の空襲で少し離れたところにある彫像は誰を埋葬しているのか分からなくなっています。これは、娘婿か孫の埋葬されたものと思います。

 これらの彫像の謎で、足の組み方が問題になりますが、当時の騎士のスタイルだという意見もありますが、私の透視ではこれは異教徒(イスラム教徒に対するキリスト教)のシンボルを足の形で表わしたものと思います。息子の彫像と思われるものの一つの騎士の足が、ライオンを踏みつけているのですが、これは、テンプル騎士団に敵対するものの象徴を踏みつけていると思います。

 大変長くなったので、フリーメーソンの話やその他のイギリスでの透視は次回にします。

不思議な話 その81 テンプル騎士団の歴史とテンプル教会

 これから、2回くらいでテンプル騎士団の起源と、概要とイギリスロンドンのテンプル教会内を透視したことについて書きましょう。
テンプル騎士団は中世のヨーロッパの騎士修道会(キリストとソロモン神殿の貧しき戦士たち)です。起源は、1096年の第1回十字軍の終了後の1119年で、ヨーロッパ人によって確保されたエルサレムへの巡礼に向かう人々を保護するために設立されたということです。いくつかの修道会(武器を持って戦う修道会)の中でテンプル騎士団が最も有名)だそうです。

 テンプル騎士団は修道士で騎士なので、第1回十字軍が占領した聖地エルサレムの防衛に主要な役割を果たしました。
 エルサレムはキリスト教にとっては敵のイスラム教にも聖地でした。その土地を得るということがどちらの宗教にとっても最重要課題でした。

 騎士団が保有するすべての資産(騎士団のメンバーが所有していた不動産や各国の王族や有力貴族から寄付された土地やお金や貴金属)のほとんどを換金して、その管理のために財務システムを発達させ、国際銀行の起源ともなりました。テンプル騎士団は独自の国際的財務管理システムを所有していたので、その財宝をめぐってはいろいろな黄金伝説が生まれました。ヨーロッパ全域に広がっていたテンプル騎士団の組織は、聖地エルサレムがイスラム教徒の手に奪い返されて、その本来の目的を失いました。その後も活動を続けましたが、1307年その財をねらって、フランス王フィリップ4世の策略でテンプル騎士団追討の命令が下り、王は騎士団に借金していたにもかかわらず、その借金を帳消しにしてその財産をのっとろうとしました。騎士団の一部の人々は命が危険となりイングランド王エドワード2世に保護されイングランドに逃れます。ここで、イギリスとテンプル騎士団の深いつながりができます。

 ずる賢いフィリップ4世は、テンプル騎士団以外にも触手を伸ばします。1306年にフランス国内のユダヤ人を一斉に逮捕し、資産を没収した後に国外に追放するという勝手なことをします。当時フランスはイギリスとの戦争で多額の借金をテンプル騎士団にしていましたが、王は悪だくみをして、聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団を合併させて、支配下に置こうとします。テンプル騎士団に拒否されると、テンプル騎士団の人々を無実の罪で、キリスト教の異端審問(いわゆる当時の魔女狩り)にかけてあらぬ罪をでっちあげ、テンプル騎士団の会員をいっせいに逮捕させ、やってもいない罪を認めさせるために拷問をしました。騎士団は汚名をきせられ、資産はフランス王配下の聖ヨハネ騎士団へ移され、活動を全面禁止にされました。

 さらにフィリップ4世はときのローマ教皇クレメンス5世を抱き込み、フランス国外においてもテンプル騎士団の活動を禁止させます。けれども、フランス国外のポルトガルは国王がテンプル騎士団の逮捕を拒否し、今のスペインカステーリャ王国とアラゴン王国でもテンプル騎士団への弾圧は行われませんでした。ドイツとキプロス島ではテンプル騎士団は無罪となり、スコットランドはローマの意向を無視して、テンプル騎士団を保護し、イングランドも騎士団を守りました。

 テンプル騎士団の資産の没収が終わると、フランス王フィリップ4世は口封じのために、1314年牢に閉じ込めていたテンプル騎士団の4人の指導者たちを火あぶりにしました。

 無実の罪を着せられたテンプル騎士団の汚名は1800年代になるまで、晴らされることがありませんでした。1813年にフランスのレイヌアールという人が初めてこの歴史上の事件に疑問を投げかけ、1907年にやっとドイツの歴史学者ハインリヒ・フインケが「テンプル騎士団の罪は事実無根で、フィリップ4世が資産狙いで騎士団を壊滅させたこと」を明らかにしました。現在のカソリック教会ローマ法王庁でも、テンプル騎士団の異端の疑いは、完全な冤罪で、テンプル騎士団の裁判は、フランス王の意図を含んだ、不正なものだったとされています。

 悲劇の主人公たちが世間の目から同情されるように、テンプル騎士団の伝説はいろいろなところにあります。伝説の多くは、テンプル騎士団の最初の本部があった中世のエルサレム神殿とのつながりから生まれているそうです。私が前に書いた不思議な聖杯の伝説の話もこのテンプル騎士団の悲劇のストーリーから出来ています。彼らは、エルサレムの神殿の跡地からキリストの聖杯を、あるいは聖櫃を、さらにキリストがかけられた十字架を持っていて、十字軍の時のフランスに没収されなかった財宝とともにひそかに隠されたという伝説が根強く、現代にまで残っているのです。財宝の一部がアメリカ発見の前に新大陸にわたった人々によって聖杯とともに、新大陸に埋められたという伝説もあります。

 その後多くの団体がテンプル騎士団と自分たちの組織を結びつけることで、その正統性や神秘性を高めようとしました。フリーメーソンは1800年代に神殿の図が入った紋章を使い始め、テンプル騎士団と自分たちを結びつけるようになりました。騎士団がロバート・ブルース支配下のスコットランドで存続したという話で、スコットランド様式のフリーメーソン団や、フランスにもあったフリーメソンにも結びつけられたといいます。イギリスにはテンプル教会があり、近代のフリーメーソンとの関係を主張する人々もいます。フィクションですが『ダ・ヴィンチ・コード』の小説や映画もこのテンプル騎士団の神秘的なイメージを描いてヒットしました。

 次回は、イギリスに今もあるとてもエネルギーのきれいなテンプル教会の歴史と透視をした話、イギリスのフリーメーソンの博物館のようなフリーメーソン・ロッジの話をしましょう。

不思議な話 その80 グラストンベリーとアーサー王伝説その他

 グラストンベリーは、ストーンヘンジから70キロメートルほど西のイギリスのサマーセット州にある小さな町で、ロンドンからは車で4時間くらいです。イギリスのパワースポットであるレイラインの中心くらいに位置しています。私が行った時、6月26日から月末まで最大級の音楽祭グラストンベリー・フェスティバルをやっていて、交通が混雑していましたが、時間が無くて見ることはできませんでした。有名歌手が来ていたようです。ここグラストンベリーはストーンヘンジと並ぶパワースポットで、レイラインの中で、最も強力な「セント・マイケルズ・レイライン上にあります。グラストンベリー修道院は、イギリスの歴史上有名なアーサー王とその妻の墓が敷地内で発見され、教会内へ埋葬しなおされたのだそうです。私も透視に行ってきました。

 ただ、アーサー王は今から1500年前AD500年代後半の王で数々の伝説があり、今でも多くの人々に愛されているのにもかかわらず、根強く実在しなかったという説もあるのです。

 アーサー王のことを少ししらべてみましょう。アーサー王については現代まで小説や映画や劇や一部がゲームやアニメの題材にもなっているかもしれません。アーサー王は5世紀後半から6世紀初めのブリトン人の伝説的な王様です。5世紀から6世紀にアングロ・サクソン民族と先住民ブリトン人(ケルト民族)との土地をかけた攻防が起こりました。歴史上のその結果は、サクソン人がイングランド(アングロ人のという意味がイングリッシュの語源です。)を占領し、負けたブリトン人はウェールズやスコットランド、ブルターニュ(なんとフランスのブルタ-ニュ半島は、ブリトン人の半島という意味なのですね。)に移民しました。負けた大勢の人々の英雄がアーサー王だったのです。

 中世の歴史書や小説では、アーサー王は6世紀初めにローマン・ケルトのブリトン人を率いて、サクソン人を撃退した王とされています。アーサー王物語はほとんどが創作や古くから伝わる民間伝承を脚色したものだそうです。物語でのアーサーは、超自然的なものや人間からブリタニアを守る勇敢な戦士として、ウェールズ人の異界として知られるアンヌンに関係のある魔法的な人物とされています。

 1100年代のジェフリー・オブ・モンマスという人の書いた『ブリタニア列王史』は創作とおもわれますが、アーサー王はサクソン人を撃退し、ブリテン、アイルランド、アイスランド、ノルウェー、ガリア(フランス)にまたがる大帝国を建設した人物になっています。

 『ブリタニア列王伝』では、アーサーの父ユーサー・ペンドラゴン、魔法使いのマリーン、王妃グィネビア、不思議な剣エクスカリバー(石の中に剣がささっていて、偉大な王になる者にしか、石から抜くことができないとされた伝説。アーサー王だけがこの剣を石から引き抜くことができました。)という伝説は有名な話です。

 この『ブリタニア列王伝』がもとになって、後の中世騎士道物語ができました。アーサー王の家来の円卓の騎士たちが主人公になる物語もあります。

 グラストンベリーアビーの修道院にの敷地内に人骨が、2体埋まっていて、それがアーサー王の遺骨と妃の遺骨だといってその修道院の、教会内に遺骨を納め、石碑がおいてありました。石碑にはグラストンベリーの王の墓碑銘で、「ここに過去の王にして未来の王アーサーは眠る」とあるそうです。

 グラストンベリーのアーサーの移し変えた遺骨の墓の前に行って透視しました。見えたのは、身分の高い、男性の姿は見えましたが、服装は1000年くらいのもののようにみえました。とすると、埋葬されたのはアーサーではなさそうです。

 1100年以降に、アーサー王の物語の話が書かれ、多くの人がそのお話を知ることとなり、アーサー王のブームが来て、日本の神社のように、祀る英雄が神のような存在となり、そのお墓を意図的にアーサー王夫婦のものとして、修道院の権威や人気を高めようとしたのでしょうか?あるいは、高貴な人の墓とおもわれる棺がでたので、修道院の人々自身が信じて、アーサー王の墓として祀ったのかもしれません。歴史上は、前に書いたように実在しない王、あるいはモデルになったローマの氏族アルトリウスがアーサ-の語源だと考える歴史家もいます。アーサー王はケルトの神の象徴として生み出されたという説もあります。サクソン人に負けた側のケルトの人々の願望として、恨みをはらしてくれる存在として、偉大な王の伝説はかかせなかったのではないでしょうか?

 ロンドンの喧噪から隠れるように、地下鉄ディクトリクト線とサークル線が乗り入れるテンプル駅を降りて、フリート通りとテムズ川の間にテンプル教会がひっそりと建っています。通りから見ると、とてもそこに教会があるようには思えません。12世紀の後半にこの教会は建てられました。現在はイギリスの法曹院4つのうち2つ、インナーテンプルとミドル・テンプルが教会の建物をつかっているという不思議な作りです。

 テンプル騎士団については、今でも謎が多く、静かな教会内では、不思議な中世騎士のお墓が安置され、建物が円形教会になっています。私のブログで聖杯伝説について書いたところで、アメリカがアメリゴベスプッチに発見される前に、ヨーロッパから来た人々が建てたのではと思われる教会も円形教会でした。その人々はアメリカにさまざまなしるしを残しています。

 次回はテンプル教会内での透視と謎のテンプル騎士団について書きますね。
 

 
プロフィール

観音寺りえ

Author:観音寺りえ
アトラス研究所の観音寺りえです。

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住所: 東京都文京区千石4-37-10 
TEL: 03-3942-1341
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