不思議な話 その156 邪馬台国の不思議

邪馬台国の最大の謎は、どこにあったかということと、その国を治めた「卑弥呼」とは誰かということです。当時の文字の記録が国内では見つかっていないようで、古代中国の歴史書に書かれたことが、頼りのようです。場所と女王については、1000数百年いろいろな意見が出て、現在でも解決されていません。邪馬台国九州説、九州の中でもいろいろな場所があげられています。邪馬台国畿内説、邪馬台国四国説、邪馬台国は実は邪馬壹(やまいち)国で、やまたいこく(やまとこく)はなかったと、畿内説を否定する論もあります。

 中国の歴史書、『三国志』の「魏志倭人伝」や、中国の正史『後漢書』や「東夷伝」には紀元後100年後半(2世紀後半)に「倭国大乱」といって古代日本は戦国時代のようだったということです。倭国には男の王がいたそうですが、国家成立から70~80年経った頃、(漢の霊帝の光和年間(178年~184年に)政情不安定になり、歴年の戦乱(倭国大乱)の後、女子を立てて王とした、とされています。

 『三国志』の中の古代中国の魏(ぎ)の国の歴史書の中の、倭人(日本人)の記録というのが、「魏志倭人伝」のようで、日本のことは2000字くらいしか書かれていないそうです。『三国志』は3世紀末の280年から290年に書かれています。魏志倭人伝もその頃書かれたようで、陳寿という役人が実際に日本に行った人の話を聞いて、歴史書に書いたということです。聞き書きなので、大ざっぱに書かれた性格があるかもしれません。

 魏志倭人伝の内容では、景初2年のことなので、西暦238年のことです。当時の日本は、倭国という全体に対して、30くらいの小国、現代の県や州にあたるでしょうか、があり、その中心に、女王の治める邪馬台国がありました。「魏志倭人伝」には、邪馬台国が魏の国に対し、貢物をしたと言う記事があります。

貢物を受け取った魏の皇帝は、卑弥呼を倭の国の王であると認めます。ここに書かれていることは当時の中国の魏の国の視点で書かれている内容で、実際の状況とのギャップがあったかもしれませんが、卑弥呼は30余国を統一するのに、魏の国のおすみつきが必要だったということでしょうか?倭国大乱が完全に平和というわけではなかったのでしょうか?邪馬台国は家が七万戸あると書かれています。古代としては大きい集落ですね

 魏の国から邪馬台国への道のりの解釈がよく議論になるようです。倭の国へ行くには、「狗邪韓国」現在の韓国?から海を渡って、南東に進むと、千里くらいで、「対馬国」(現在の対馬)につくと書かれています。千里は3.9キロらしいので、千里は3900キロくらいらしいですが、距離を大ざっぱに書いたのか聞き書きなので、遠いという表現なのか、定かではありません。対馬国から海を南に進むと一支国(現在の壱岐島)、さらに海を渡ると末盧国(まつろこく、か、まつらこく)で現在の佐賀県北部の松浦半島周辺らしいです。陸路を東南に進むと、伊都国(いとこく・・・現在の福岡県糸島市)糸島市多くの古代遺跡があるそうです。そこからさらに東南に進むと、奴国(なこく・・・ そこから、東へ進むと不弥国(ふみこく・・・現在の福岡県宇美町?)ここからはっきりしないようですが、つぎの投馬国(とうまこく)の位置からわからなくなります。投馬国の場所がわかると、ヒントになるのですが・・・投馬国から邪馬台国まで、南へ水行20日というのも日数がかかりすぎるので、読み手を混乱させます。当時は、海水が今より上昇していて、大牟田や熊本市内は海水につかっていたかもしれません。有明海や島原湾を通り、川でも進んだかもしれません。阿蘇山も今より海に近かったでしょう。阿蘇山のふもとと海の港の間くらいは、当時交通の便がよく、交易もしていたかもしれません。

 次回は、卑弥呼についてと魏志倭人伝から読み取れる邪馬台国の服装、慣習食べ物などから、背景をさぐります。   
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不思議な話 その155 レイライン(3) 

レイラインのまとめと日本の古代文明、邪馬台国の場所について、少し考えてみます。前回の富士山を中心にした、何本かのレイラインと神社の配置の不思議な関係についてです。富士山の北西に諏訪大社があるのですが、そのライン上に、精進湖諏訪神社があります。それから、北に諏訪山があるのですが、富士山と諏訪山のライン上の途中にも、河口湖があり、河口湖諏訪神社があります。そして、富士山から北東に山中湖がありそのライン上にも山中諏訪神社があります。これは富士山の頂上から、各神社を意図的に配置したのではないかと思われます。

 それと別のラインとして、浅間神社系の神社も反対方位で、富士山を取り巻いています。富士山山頂から距離として近い北東に富士御室浅間神社、その延長線状に北口本宮浅間神社さらにそのラインの延長線上に下浅間神社そのラインから45度くらいの富士山山頂の真東に須走浅間神社があり、富士山山頂から、南西に富士山本宮浅間神社があります。これらの富士山を取り巻く神社は、等間隔に富士山を鎮めるかのように約45度や25度位の間隔で、計画的な位置に作られているかのように見えます。これは、富士山が古代から江戸時代の近世の時代に至るまで頻繁に繰り返してきた噴火と関係があるのでしょうか?

 富士市のサイトで富士山の噴火史について調べると、富士山の周辺では100万年前から火山活動が活発だったそうです。その中で、約70万年前に富士山付近には小御岳火山がありました。小御岳火山が静かになる、約10万年前頃に、古富士山は活動期に入りました。古冨士山は爆発的な噴火が特徴で、大量の火山灰や溶岩を噴出、そして、標高3000メートルに達する大きな山になりました。

 新富士山は今から約5000年前から新しい活動期に入りました。この時期から現在までの富士山を新富士と呼んでいるそうです。日本の古文書には8世紀頃からもう富士山の活動の記録があります。縄文時代後期の今から3000年位前に、4回の爆発的噴火が起こりました。仙石スコリア(スコリアは噴火で放出された岩の塊、鉄分の多い黒っぽいマグマが固まったもので、噴石丘ともいう。)大沢スコリア、大室スコリア、砂沢スコリアというのが有名だそうで、大沢スコリアは浜松の方まで飛んできたそうです。

 約2300年前は、富士山の東斜面で大規模な崩壊があり、泥流が東は御殿場市から足柄平野へ、南は三島市を通って、駿河湾へ流れ落ちたそうです。「日本紀略」という歴史書によると、紀元後800年頃に、3月14日から4月18日(約1ヶ月)にかけて、大規模な噴火が起こったようです。2年後の802年1月8日にも噴火の記録があります。この影響で足柄路が閉鎖され、箱根路が代わりに使われました。

 864年から866年の2年間、貞観大噴火と言って、富士山の北西斜面から大量の溶岩を流す噴火が起こりました。当時の大きな湖を埋めて西湖と精進湖ができました。これが青木ヶ原溶岩で、ここの現在青木ヶ原樹海が広がっています。その約3年後869年7月に陸奥(むつ)の国東方沖の海底を震源にする貞観三陸地震が起こりました。

 時間が経って江戸時代の1707年、大量のスコリアと火山灰を噴出した宝永大噴火が起こりました。この噴火は日本最大級といわれている宝永地震の49日後に始まり、江戸の市中まで、大量の火山灰を降下させました。噴火の1~2ヶ月前から山中のみで有感地震が起こり、十数日前から地震活動が活発になり、12月に南東の宝永山で大爆発が起こり、黒煙、噴石、降灰があり、火山雷が起こり江戸でも多量の降灰がありました。川崎で5センチも積もったそうです。噴火は次の年の5月まで続きました。富士山の噴火の2ヶ月前に宝永大地震があったわけですが、震源は南海トラフの海溝型地震でした。

 宝永の大噴火後、1854年の安政東海地震をきっかけに、富士山では山頂南東縁の荒巻と言うところで、噴気活動がありました。この場所からは時々、明治、大正、昭和にかけて噴気活動があったようです。

 その後1960年台から噴気活動は終息しているそうです。しかし、1987年から富士山では一時的に火山性地震や山頂での有感地震が4回ほどあり、2000年冬や2001年春には、富士山の深部で低周波地震が観測されているようです。

ここに取り上げた大きな噴火以外にも、古文書には、781年以降17回の噴火記録があるそうで、噴火の合間には平穏な期間が数百年(1083年~1511年400年以上噴火なし)1707年の宝永大噴火以降300年以上噴火なしとなっています。

 古代からの記録や噴火の歴史の中で、富士山の噴火を鎮めるためにある意図を持ってまわりの神社が建てられたのではないかと思います。富士山の噴火の前後に大きな地震を伴うことが多く、人々の生活を守るために、そして、神の怒りを鎮めるために計画的な場所に、地脈(レイライン)の上にまじないの効果を上げる配置がなされていたのかもしれません。

次のテーマは古代史の中での大きな謎、邪馬台国の場所と卑弥呼についてですが、なかなか結論のでないテーマですが、私なりの考えを少し書くのは、次回にまわしましょう。

不思議な話 その154 レイラインとボルテックス(2)

前回引用した「富士山レイラインの研究」によると、富士山の山頂から西に七面山と人穴神社(自然の洞窟があるらしいです。)、東に須走浅間神社を結ぶ直線のレイラインはかなり強烈なパワースポットのようです。七面山は法華経の聖地と言われ、多くの行者や参拝者が昔からいる霊山だそうです。春分の日と秋分の日は、七面山の敬慎院から見る、富士山山頂から昇る太陽を拝む人々がたくさんいるということです。

このように聖地が一直線に並ぶことは偶然ではなく、人工的なものは意図的に作られていると思います。世界中のレイラインは太陽の運行と重要な関連があります。巨石の配置ストーンサークルなども、太陽の季節ごとの動きを観測出来るように作られているものが多いです。作った人たちは太陽が命を育むものだということを知って観察したのでしょう。種まきの時期や刈り取りの時期を計算したのかもしれません。各星の運行などをともに観察して、占いをして、政治を決めたのかもしれません。文明の中心になる都を決めるときにも、レイラインやボルテックス、天の星の動き、太陽の動きから割り出した、パーワースポットのようなところに遷都したのかもしれません。

 レイラインになり得る条件は、太陽の動き、春分のコースや秋分のコースの方角、断層や地磁気や水脈の上、地図の上でのラインなどがあるそうです。富士山にある金運神社がパワースポットになっているそうです。

 前回挙げた富士山のレイラインと日本の古代神話との関係は、関連性がたくさんあるようです。夏至の日の出ラインの始点、九州の阿蘇山は、世界最大のカルデラで、古代神話の時代に噴火を繰り返していたそうです。神話では、天孫降臨の高天原があったという説や、邪馬台国があったという説などがあります。日本人のルーツはアジアのいろいろな地域から移り住んで混血していったらしいのですが、朝鮮半島から渡ってきた人々が、北九州に住んで、国をつくり、その枝分かれした人々が九州から東の関西地域に移住し、奈良付近に都を作ったかもしれないと言う人もいます。その人々の子孫が神話を作ったのかもしれませんね。神武天皇の系譜が何らかの理由(勢力争いで負けたとか・・・)阿蘇の土地を捨てて、高千穂を抜け、日向に移動したとすると、神話で、天孫降臨でニニギノミコトが高天原から日向の高千穂に降り立ったという話と一致するのでしょうか?ニニギノミコトより先に高天原を追放されたスサノオノミコトは出雲に降り立ち後のオオクニヌシノミコトの代までに、周辺の地域を服従させていきました。『出雲の国風土記』では先住民を土蜘蛛(つちぐも)とモンスターのような呼び方をしています。古代のヨーロッパのローマ人が北の方のゲルマン民族をバーバリアンと呼んだように、文明が進んでいたところから、より原始的な民族をみるとそういう呼び方になるのでしょうか?

 冬至、日没ラインの始点霧島は、荒々しい行いで、高天原を追放されたスサノオノミコトが出雲で勢力を伸ばすのを見て、アマテラスオオミカミは孫に当たるニニギノミコトを地上へ、降臨させることに決めました。その降り立った場所が、霧島付近の高千穂、で、霧島神社にはニニギノミコトを祭っています。この神話と関連があるのでしょうか?

 ニニギノミコトが鉾を逆さに突き刺した「あまの逆鉾」は霧島の高千穂峰だそうです。降臨の際お供をしたのは、オモイカネノカミ、道案内をしたのが、猿田彦の神(道祖神)です。征服した一族が土地を支配し、土着のものと交配し、時間をかけて仲間が住みつき、過去の土地の呼び名や記憶を新しい地名に変えて大和(奈良)に向かっていったのかもしれません。いろいろな地域に残る神話の「風土記」はその証拠なのかもしれませんね。

 ニニギノミコトは山の神であるオオヤマツミ(大山祇神社)の娘コノハナサクヤヒメ(浅間神社)と結婚し、ウミヒコ(鹿児島神社)ヤマヒコ、ホスセリの3人の皇子が生まれます。ヤマヒコが皇位を継ぎ、その孫が神武天皇にあたるのでしょうか?神武天皇は霧島近くの日向から東を攻め、東征します。海に出た神武天皇は、宇佐などの北九州から瀬戸内海を通って、大阪についたが、土着の豪族の勢力が強く、大阪に敗れて、紀伊半島のうらの熊野に上陸し、大和(奈良)にたどりついたコースを辿ったのかもしれません。熊野の有力豪族の抵抗を受けながら、熊野の古い土着の神々を廃し、神道を広めていきます。そこに神社を作ることは、重要だったのかもしれません。神武天皇は三本足のヤタカラスの導きで吉野に入り、熊野を光に対する闇の国と名づけます。

 出雲は、神話上、熊野と同じく、死に通じる根の国とされました。スサノオノミコトの系譜のオオクニヌシノミコトは出雲を平定したのにその利益を享受しないで、アマツカミに追い出され、死者の国に隠遁します。オオクニヌシノミコトの家来の神々も追い出され、大和朝廷の出雲支配の神話になりました。その時オオクニヌシ一派を脅したのが、タケミカズチノオノカミ(鹿島神社)とフツヌシノカミ(香取神社)で脅された被害者がオオクニヌシノミコトとその子タケミナカタノカミと兄弟のコトシロヌシノカミで、オオクニヌシのミコトは隠遁して、出雲大社や氷川神社にまつられました。タケミナカタノカミは力比べに負けて、諏訪へ逃れます。(諏訪大社)

 コトシロヌシノカミは三島に逃げて三島神社にまつられます。伊勢神宮は全国の神社の中心になります。大和から見て最初に太陽が昇る五十鈴川の上流に日神の宮を建てました。神武天皇の后は五十鈴姫という名前なので関連性があるかもしれません。

大和朝廷成立後、伝説ではヤマトタケルが日本各地の平定に出かけます。ヤマトタケルは伊吹山の神と戦い命を落としたということになっています。神話上の神や「古事記」や「日本書紀」の天皇がどこまで、実在でどこまで架空の人物なのか見分けるのは難しいですが、神社に祭られている神はそれぞれ過去の事跡と関連性があるものが多いのかもしれません。


ヤマトタケルは一人の人物がモデルだったのではないかもしれません。しかし、古代に文明の進んだところから、縄文から住み着いている土着の人々を征服した歴史があったのでしょうか?熊襲(くまそ)と呼ばれた九州南部の人々と東北地方や北海道に追いやられた人々は、これらの神話と違う系譜をついでいたのかもしれません。遺伝的にも、九州と東北や北海道、沖縄、四国南部の人々は近いようです。前にも書いたお酒に強い人々と弱い人々の分類は、混血をしていても連綿と受け継がれているのでしょうか?お酒に強い人は、沖縄、九州、東北、北海道、四国に多く分布していますね。それらの人々の神話や伝説は、ケルトの人々の伝説と同じように過去に葬り去られたのかもしれません。

 次回にまとめをして、新しいテーマで書きましょう。

不思議な話 その153 レイラインとボルテックス

2016年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。

 今日は、新年の気の流れを変えるパワースポットと、それをつなげたと言われているレイラインと、ラインの交点で渦巻きのエネルギーとなって、さらに気の流れが強くなるボルテックスについて書きましょう。

イギリスのことを書いた時に、古代遺跡や巨石群をつないだレイラインのことに触れました。イギリスではストーン・ヘンジ周辺のレイラインやパワースポットが有名ですね。イギリスのストーンヘンジもエジプトのピラミッドもマヤやインカの古代遺跡や聖地と呼ばれる所は、春分や夏至など太陽の位置と密接な関係があります。日本でも古代遺跡があり、太陽の動きや月の動き、暦が古来から大切にされていました。中国から来た暦、「二十四節気」と中国と日本の気候のズレを補った「雑節」を取り入れて、日本の旧暦になったようです。その旧暦の節目の時期は、気の流れが変わるようで、古来から、神社等にお参りをして、良い気を取り入れようとする習慣があります。特に新年の参拝は年が改まるという大きな気の流れの変化があるので、多くの日本人は神社、仏閣等にお参りをしますね。

日本のレイラインは多数あると思いますが、一番パワーが強いと言われているのが、富士山と茨城県の鹿島神宮を結ぶレイラインだそうです。そして、その丁度中間に皇居、江戸時代では江戸城が入るということです。徳川家康を祀っている日光東照宮の陽明門は鳥居から門を見上げると北極星の向きに来るようになっていると聞いたことがあります。そのラインをそのまま伸ばすと、皇居(江戸城)に連なります。富士山鹿島神宮ラインと東照宮から皇居(江戸城)のラインとの交点が、皇居なので、パワーの特に強いボルテックス(渦巻き上にエネルギーが上に上がっていく所)になります。皇居周辺のお寺や神社は強いパワースポットになるので、新しい年のお参りには適しているのではないでしょうか?

日本列島を出雲大社から横に千葉県玉前神社へ横断する700キロ余りのレイラインも最長のラインのようです。このライン上には寒川神社、富士山、身延山、伊吹山、竹生島、元伊勢、大山というパワースポットをつないでいます。このレイラインは春分と秋分の日にこのラインに沿って太陽が動くので、密教の世界では、古くから「ご来光の道」として知られていたそうです。

 近畿地方の聖地5箇所、元伊勢、伊吹山、伊勢神宮内宮、熊野本宮大社、イザナギ神宮を直線で結ぶと、不思議なことに五芒星の形になって、中心は平城京になります。これは、偶然ではなく、奈良の平城京の時代に、国家安泰のためにこれらの聖地が作られたのかもしれませんね。

奈良県では、大和三山の一つである、畝傍山(ウネビヤマ)と葛城山(カズラギヤマ)と三輪山を結んだラインも強いエネルギーがあり、夏至の日の出ラインにあたるそうです。そのラインの左右等距離に耳成山(ミミナシヤマ)と天香久山(アマノカグヤマ)があるので、これらの山は人工的に作られたのではという人もいるほどです。三輪山と耳成山を結んだ線上に、大神神社と狹井神社があります。平城京から見ると、信貴山や高安山は冬至の太陽が沈む方位です。

富士山のレイラインについては、「富士山レイラインパワースポットの研究」というサイトが詳しかったので、参考にさせていただきました。ここでは古事記や日本書紀などの神話を参考にしながらレイラインを考えているので面白いです。富士山を中心に春分秋分日の出、日没ラインを見ると、石川県の白山から諏訪大社、鹿島神宮、出雲大社、元伊勢、富士山、寒川神社を延長したレイラインが引けるそうで、当然エネルギーの強いレイラインになるので、春分や秋分の時期はこのラインをたどる旅行などは良いかもしれません。

 次に夏至日の出ラインは、長いですが、九州の阿蘇から伊吹、諏訪大社、日光、冬至の日没ラインは、それに平行して、九州の霧島から、伊勢神宮、豊川神社、富士山、皇居のレイラインになるようです。

 夏至日没、冬至日の出ラインは2箇所を斜めに結んだラインで5本あります。日光と鹿島神宮のライン、諏訪大社と寒川神社ライン、伊吹と豊川神社ライン、元伊勢と伊勢ライン、出雲大社と熊野ラインです。これらの線は平行になります。これらのラインの交点が特にパワーの強いスポットになりますが、さすがに古代から天皇家の斎宮が守ってきた伊勢神宮がボルテックスの交点になっています。出雲大社もレイラインが交わっていて、大切な場所のようです。諏訪大社と鹿島大社もレイラインが交わっています。富士山は神社ではありませんが、何本ものレイラインが交差しているので、日本最高峰の霊山ですね。

 次回は古代の伝説や神話とこれらのパワースポットについて、まとめますね。
プロフィール

観音寺りえ

Author:観音寺りえ
アトラス研究所の観音寺りえです。

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住所: 東京都文京区千石4-37-10 
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