過去の予言について その1 -ノストラダムスのいくつかの詩の解釈ー

 文明のルーツを探るは一時中断して、また書きますね。

 今回から歴史上の有名無名な様々の予言が世界中にあるので、それを少し取り上げてみたいと思います。私は天変地異の予言はできるだけ避けることにしています。いたずらに恐怖心をあおるのは個人的には感心しません。


私のやることは、個人の情報を本人に伝え、必要ならば、個人の未来の情報を伝えたりもすることです。

 皆が巻き込まれる、天変地異や戦争などは、ある程度人は状況を分析して、予測することは出来ます。
 予測の範囲外で果たして、歴史的な予言は可能なのでしょうか?また、その予言は変えられえるのでしょうか?
 私の考えでは、超越的なものから託された本当の預言(預かる言葉)は何年何月何日と正確なものであるべきで、あたった、あたらなかったと言う以前のものだと思います。ですから預言はほとんど、この世にはないのではと思います。

 一般的な予言は、それが実現しない事の方が多いような気がします。

 一番困るのは、後の人たちによって解釈がとても異なる予言です。どうにでもとれる表現をしているものです。
前にノストラダムスの予言詩について、一つの象徴詩のようなものと感想を書きました。けれども、過去にはヨーロッパで、また世界中で4百数十年間、彼の著作について研究している人たちがいるので、いくつかの詩について考えてみようと思います。

 ノストラダムスは1973年に日本で五島勉が紹介して、大流行しましたが、彼の解釈はヨーロッパの研究家からは大きくかけ離れているようです。ほとんど違っているかもしれません。彼の説の人類滅亡かといっていた1999年の7の月というのは占星学上西暦の解釈とは異なる時期だったのです。アンゴルモアの大王とはジャックリーという中世フランスの農民のことを別名として言っていて、中世での百姓一揆のことをさすのでは、という解釈がヨーロッパでは通説なようです。

 
 ノストラダムスは(1503年12月14日~1566年7月2日)ルネッサンス期にフランスのプロバンスに生まれた医者で占い師(占星術)予言者であり、詩人、料理研究家でもあるのです。

 本名はミシェル・ド・ノートルダムでペンネームとして、名字をラテン語風につけたのだそうです。父方の先祖はユダヤ人で、商人でした。彼の曽祖父がキリスト教のカソリックに改宗しました。当時の中世ではキリスト教カソリック以外の信仰をもつことは異端審問にかけられるおそれがあるので、とても危険なのでしょう。ですから、ユダヤ人の血をひくノストラダムスは、カバラ(ユダヤ教の神秘書)の研究もしたのではないかと言われています。

 彼は15歳でアビニョン大学に入学し、7科目を学び、途中でペストが流行し、大学は閉鎖となって青春時代を各地で放浪し、薬草の勉強をしました。1521年18歳から26歳までの8年間放浪したのち、モンペリエ大学医学部に入り博士号をとったという説と中退したという二つの説があるようです。先生とけんかして、除籍になったという説もあります。それが本当なら、彼は人間関係に苦労する人物だったかもしれません。

 彼はアジャンという地域の有名な学者に招かれ、そこで、1回目の結婚をします。子供も出来たのですが、その妻と子はペストで死んだという話が有名ですが、記録はないそうです。

 彼は自分を呼んでくれた学者とも仲が険悪になり、「聖人を冒涜した」という罪で異端審問にかけられたそうです。中世のカソリックの恐怖の裁判も経験したのですね。彼は余計なことを言って人間関係をこわしてしまうところがあったのかもしれません。今でいうKY(空気が読めない)な人だったのでしょうか?

 妻子が亡くなり、異端審問にかけられ、また彼は長い放浪の旅に出ます。1530年後半から1543年の7~8年放浪して医療活動や研究をしていたのかもしれません。40年間の人生は決して幸せな様には見えませんね。
なぜ自分はこんなにつらい人生を生きているのかと思ったかもしれません。後の彼の信奉者が彼は後に法王になる人を見抜いたとか後に王様になる人の予言をしたとか伝説になっているそうですが、これは彼の能力を高く買っていた後の人が作った伝説かもしれませんね。

 1544年にマルセイユの高名な医者に師事し、1546年に南仏のエクスというところでペストが流行った時に、自ら治療にいったとありますが、すごい勇気のある人だと思います。ペストはそのころ黒死病といわれ、かかったらほとんど助からないと言われていました。

 私が出した自分の過去世でも1300年の後半に私自身が自分の娘とペストで30代前半で亡くなっています。自分の体にできた紫色の大きなあざを覚えています。ヨーロッパではペストで、人口の三分の一から半分が死んだと言われています。

 原因も治療法もわからない病気に彼は挑んだのです。彼の伝記映画では、消毒をしたり、ネズミを退治するように言ったり、キリスト教で嫌われていた火葬を指示したという場面がありますが、これも彼を美化したもので、実際の所は分からないそうです。

 ペストにも感染せずに、その後彼はプロバンスに戻り、1547年に44歳で再婚しました。寿命の短いその時代としては、エネルギッシュな人ですね。子供もすくなくとも3人は生まれています。

 1550年代に入ると、貴族のサロンの名士となり執筆活動をして1555年に予言詩を出しました。彼が52歳の時なので大器晩成、年をとってからブレイクした人ですね。

 その予言が評判になり、王様(アンリ2世)とお妃(カトリーヌ・ド・メディチ イタリアのメディチ家から嫁いだ王妃)に謁見して、庇護を受けました。

 ノストラダムスはカトリーヌ王妃の4人の男の子供が皆王位につくことを予言したとされていますが、史料がありません。

 それから、彼の4行詩の中で、当時の王、アンリ2世の死を予言したとあります。この話は17世紀100年後にそう言われるようになったという説もあります。1559年国王が死んだ年はノストラダムスは世界的な平和?な年として王妃に予言していました。実際は王様の死を予知できなかったのではとも言われています。


 長くなったので、続きは次回彼の予言詩のネタになったものと、ジュネーブの詩が、気にかかるので、調べてみましょう。詩は一応、原典のフランス語を見ました。いくつかの解釈も見てから自分でも考えました。
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